「読モ」

宮崎智之「ライターが“読モ”化している件について」http://bylines.news.yahoo.co.jp/miyazakitomoyuki/20170207-00067457/
「ライターは「読モ」になった方が得なのか?」http://netafull.net/diary/054722.html


或る方から教えられたのだけど。先ず「読モ」というのが読者モデルの略語だということがわかるまでに5分弱かかってしまった。「読者なのにあっち側に行ってしまった人」。そういうことなら今に始まった話ではないと思う。また1970年代話になって恐縮なのだけど、パルコが出していた『ビックリハウス*1の執筆者も「読者なのにあっち側に行ってしまった人」が多かったのではないかと思う。また、『ロッキング・オン』も(少なくても1980年代半ば頃までは)そういう雑誌だったと思う。「「読モ」としてのライターにとっては、交友関係も「商品」になる」という。宮崎氏は「「読モ」としてのライター」の対極として「評論家などの専門家、ジャーナリスト」などを位置づけているのだけど、管見の限りでは、少なくとも日本の「評論家」や「ジャーナリスト」というのは「交友関係」を「商品」として世渡りをしている人たちの謂なのではないかと思う。要するに、独自の見識や見解よりも〈業界〉における「交友関係」(人脈)を誇示し、それに基づくインサイダーな情報を小出しにするという感じ。まあ、藝能レポーターは実際藝能界レポーターであって、音楽や映画に対して深い見識があるわけではない。また、政治評論家というのは実際は政界評論家であって、別に政治理論や政治思想について深い学識があるわけでもない*2
何か見当違いのことを書いていそうだなというのは薄々感じている。