Addiction

内田良*1「部活動はなぜ過熱する? 指導者がハマる魅力」http://bylines.news.yahoo.co.jp/ryouchida/20170101-00066130/


学校の部活動の過熱とそれによる教師の疲弊を巡って;


意外に思われるだろうが、現在、部活動顧問の過重負担について声をあげている先生には、「部活動が大好きな(大好きだった)」人がけっこういる。けっして、部活動嫌いな先生たちではない。
ネット上で、「ブラック部活」の問題を訴えている先生の一人に、直接会って話を聞くことができた。その記録の一部を紹介しよう。

A先生:じつは私には、部活動に燃えていた時期があるんです。けっこう多くの教員が通るんですよ、部活動に燃えていた時期。とっても楽しかったです。
内田:え? 部活動が楽しかった?
A先生:帰りの会が長引くと、もう向こうで部員が集まってるんですよ。そうすると、早くそっちに行きたくて、イライラ、イライラする。そして、私なりに指導方法を勉強して頑張って教えれば、やっぱり勝つんですよ。そうすると、もっと勝ちたいみたいになる。中毒ですよ。
内田:だんだんとハマっていくんですね。
A先生:だって、あれだけ生徒がついてくることって、中学校の学級経営でそれをやろうとしても難しいんですよ。でも、部活動だと、ちょっとした王様のような気持ちです。生徒は「はいっ!」って言って、自分に付いてくるし。そして、指導すればそれなりに勝ちますから、そうするとさらに力を入れたくなる。それで勝ち出すと、今度は保護者が私のことを崇拝してくるんですよ。「先生、飲み物どうですか〜?」「お弁当どうですか〜?」って。飲み会もタダ。「先生、いつもありがとうございます」って。快楽なんですよ、ホントに。土日つぶしてもいいかな、みたいな。麻薬、いや合法ドラッグですよ。
部活動に力を入れる → 生徒が試合に勝つ → 生徒さらには保護者からの信頼も得られる → さらに部活動に力を入れる →・・・ こうした流れにより部活動の過熱に歯止めがかからなくなっていく。そして、この負の循環にふと気づいて立ち止まった先生たちがいま、部活動のあり方について、ネット上で声をあげているのである。

競争原理が優先される世界では、ひとたびスイッチがオンになると、あとはヒートアップしていくばかりで、もうオフにはできない。それを主導するのは、先生でも生徒でも保護者でもない。誰かのせいというわけではなく、お互いに首を絞め合いながら、休みたいけれど、休めない状況が進んでいく。
「授業」であれば、時間数はカリキュラムのなかで固定化(制約)されている。日数や時間の面では、過熱しようがない。だが「部活動」はちがう。学習指導要領上は「自主的」な活動に位置づけられているがゆえに、際限なく過熱する可能性がある。ひとたびそこに力を入れたとたんに、後戻りできない流れがつくられていく。
デュルケームが『自殺論』で定式化したところのアノミー*2サイバネティクスの物言いを借りればポジティヴ・フィードバックばかりでネガティヴ・フィードバックがないこと(See eg. 佐藤良明『ラバーソウルの弾みかた』)。ただ、問題は「競争原理」ではないだろう。「競争原理」なら最小のコストによって最大の収益を獲ることが目指される筈。「競争」云々というよりも、「過熱」それ自体が快楽になっているわけだ。
自殺論 (中公文庫)

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ラバーソウルの弾みかた―ビートルズから《時》のサイエンスへ

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また、内田氏は「部活動は、競争の原理ではなく、教育の原理にもとづいておこなわれるべきである」と述べているけれど、そんなのはアルコール依存症覚醒剤依存症の人に説教をかますようなものだ。相手はただむかつくだけだろう。ではどうすればいいか。一つは物事には限界があるということだろう。ネガティヴ・フィードバックの導入。中学生・高校生なら、部活ばかりやって勉強する暇がなくなり、テストの点数が低下する。これじゃ高校(大学)に受からないぞ! ということで考え直すんじゃないか。病気とか怪我もネガティヴ・フィードバックだけれど、死んでしまったり半身不随になってしまったらしゃれにならない。また、いくら死ぬ気で努力しても、全ての野球部が甲子園に行けるわけはないということがある。つまり、殆どの必死の努力は究極的には挫折することを運命づけられている。その挫折こそが転機となるということもあるだろう。ただ、この場合、意味喪失感から自殺へと至ってしまうという危険があることも注意しなければいけない。そもそも問題は「快楽」なのだった。であるなら、「過熱」とは別の仕方でハイになる方法を発見しなければいけないということではないだろうか。