残ったもの?

毎日新聞』の記事;


横浜・小1死亡事故
運転の87歳逮捕…前日から車で走行

毎日新聞2016年10月28日 23時44分(最終更新 10月29日 01時26分)

 横浜市港南区で軽トラックが集団登校をしていた児童の列に突っ込み、市立桜岡小1年、田代優(まさる)さん(6)が死亡した事故で、神奈川県警港南署は28日、軽トラックを運転していた同市磯子区洋光台6、無職、合田政市(ごうだ・まさいち)容疑者(87)を自動車運転処罰法違反(過失致死傷)容疑で逮捕した。調べに対し「間違いありません」と容疑を認めている。逮捕前の聴取では「どうやって現場まで行ったのか、よく覚えていない」などと話したという。

 この事故では、3年生と5年生の2人が重傷を負い、ほかに1年生と3年生の2人と合田容疑者ら大人3人もけがをした。

 同署などによると、合田容疑者は事故前日の27日朝、「ごみを捨てる」と家族に告げて自宅を出た後、軽トラックで県内外を走行し、現場まで行ったとみられる。付近の路面にはブレーキ痕がなく、蛇行したような形跡があったという。

 合田容疑者は2013年11月に認知症の検査を受け異常がなかったとされ、同12月に免許を更新していた。

 事故は28日午前8時ごろ、同市港南区大久保1の市道で起きた。合田容疑者の軽トラックが前に停車中の軽乗用車に乗り上げるようにして追突。バランスを崩して横転しながら児童9人の列に突っ込み、電柱に衝突した。軽乗用車も追突されたはずみで前方のバス停に止まっていた路線バスに追突した。

 田代さんの祖母京子さん(63)は28日、「昨日の夕方に『運動会で頑張ったよ』と元気に報告しにきてくれて、一緒に夕ご飯を食べた。頑張り屋で優しい子だった。現実を受け止められない」と沈痛な表情で話した。桜岡小の高島典子校長は報道陣の取材に「元気で優しい子で、クラスではいつも一生懸命取り組んでいた」と涙ながらに語った。

 現場の市道は、道幅が狭いにもかかわらず交通量が多く、以前から危険性が指摘されていた。横浜市教育委員会によると、10年度に文部科学省から安全対策をするよう通達があり、路側帯を緑色に塗るなどの対策が取られていた。【村上尊一、木下翔太郎】
http://mainichi.jp/articles/20161029/k00/00m/040/152000c

また、『朝日新聞』;

運転の87歳、車で徘徊か 自宅も素通り 横浜小1死亡

飯塚直人、古田寛也

2016年11月4日12時01分

 横浜市港南区市道で集団登校中の小学生の列に軽トラックが突っ込み、1年生の男児が死亡した事故で、自動車運転死傷処罰法違反(過失運転致死傷)の疑いで逮捕された合田政市(ごうだまさいち)容疑者(87)は、事故前日の朝に車で自宅を出てから帰宅せず、自宅前も素通りしていたことが捜査関係者への取材でわかった。車に乗って徘徊(はいかい)していた疑いがあり、神奈川県警は判断能力を見極めるため、精神鑑定のための留置が必要との見方を強めている。

 捜査関係者によると、合田容疑者は事故前日の10月27日朝に横浜市磯子区の自宅を出発し、川崎市を通って東京都内に入ったが、すぐに神奈川県内に引き返していたという。その後は事故を起こす翌28日朝まで、横浜市周辺を車で断続的に走っていたとみられる。2カ所で給油をしていた。

 車の荷台には家庭ごみなどが載せられており、合田容疑者は「ごみを捨てに出た」と話しているという。一方で、「どこを走ったか覚えていない」「道に迷った」などと説明があいまいで、供述調書がまとめられない状態という。

 合田容疑者は2013年12月に免許を更新する前、同年11月に検査を受けて認知機能に問題はなかったとされる。(飯塚直人、古田寛也)
http://www.asahi.com/articles/ASJC231F9JC2ULOB001.html

See also


game7l「合田政市容疑者とは?認知症の疑いも?事故原因まとめ【横浜・小1死亡事故】」http://matome.naver.jp/odai/2147768307427481901


一般的なことをいえば、社会の高齢化ということで、交通事故に限らず、容疑者の責任能力が争点になる事件というのは増えているのではないかと思った。「認知症」による「徘徊」ということだけど*1、車を運転しながらの「徘徊」というのは例は多いのだろうか。
自分の子どもを轢き殺された親にとっては、この合田政市というのはとんでもねぇ糞爺ということになるのだろう。勿論、糞爺認定に異議があるわけではない。でも、この爺の振る舞いについて、凄ぇ! と思ったのも事実なのだ。「認知症」というのは自己が(骨粗鬆症のように)すかすかになっていくプロセスと考えることもできるだろう。オリヴァー・サックス『音楽嗜好症』*2に曰く、


たしかに、アルツハイマー患者のなかには、病気が進行するにつれて(何年もかかる場合もあるにせよ)さまざまな能力や機能を失う人もいる。ある種の記憶の喪失は、アルツハイマー病の早期指標であり、それが深刻な健忘症に進行する場合もある。のちには言語障害、そして前頭葉が関与する判断や予測や計画力のような、もっと繊細で深遠な能力の喪失も起こることがある。最終的に、アルツハイマー病患者は自己認識の基本的な部分、とくに自分の無能力の自覚をなくす可能性がある。しかし、自己認識や精神作用の一部をなくすと、自己も失うのだろうか。
シェイクスピアの『お気に召すまま』のジェイクイズは、人生の七つの段階について考え、最後の段階は「何もなし」とした。しかし、人はいろいろなものをなくし、ひどく弱くなるかもしれないが、何もない白紙状態には決してならない。「第二の子ども時代」に退行するアルツハイマー患者もいるかもしれないが、認知症がひどく進んでも、さまざまな側面をもつ基本的性格、人格と人間性、つまり自己は――特定のほぼ不滅の記憶とともに――生き続ける。アイデンティティにはとても活発で広い神経基盤があり、個人のスタイルは神経系のごく深くに染み込んでいるので、少なくとも精神生活が少しでも続いているかぎりは、アイデンティティがすっかりなくなることはないように思える(実際、そもそも人の脳の構造をつくっているのが知覚と行動、感情と思考なのであれば、こう推測できるだろう)。(後略)(pp.485-486)
すかすかになっていく自己において残されるもの。その中には、〈習慣としての自己〉として身体にしっかり刻み込まれた自己があるだろう。例えば、二足歩行は1歳の誕生日を過ぎた頃に習得された、基本的な習慣のひとつであるが、どんなにぼけぼけになっても、寝たきりにならない限り、二足歩行の仕方を忘れてしまうという人は少ないのでは? また、自転車の乗り方や水泳は習得するまでは苦労するものの、一旦習得すれば忘れることはないといわれる。認知症が進んだ人を水の中に放り込んでもちゃんと泳ぐのだろうか。話を合田という爺に戻すと、〈自動車を運転する自己〉というのは失われていない。彼にとって、自動車の運転というのは、既にいちいち意識するまでもない習慣として身体に刻み込まれているということなのだろう。自分でも「よく覚えていない」にも拘わらず、小学生の列に突っ込んでgame overになるまで、この爺、まる一日、車を走らせ続けていたのだった。その間ずっと、彼の脳や感覚器官がどのように作動していたのか、再現できれば面白いのにね、と思った。
ところで、最初「軽トラック」が突っ込んだということで、ちょっと??という感じになった。「軽トラック」ということだと、どうしても農民とか自営業者を連想してしまうのだけど、商売とは全く関係なしに、自家用車として使っている人というのは多いのだろうか。