「ぼくが自分自身について語るとき」(メモ)

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

スプートニクの恋人 (講談社文庫)

村上春樹スプートニクの恋人*1からメモ。


しかし自分について語ろうとするとき、ぼくは常に軽い混乱に巻き込まれることになる。「自分とは何か」という命題につきものの古典的なパラドクスに足をとられてしまうわけだ。つまり純粋な情報量から言えば、 ぼく以上にぼくについての多くを語ることのできる人間は、この世界のどこにもいない。しかしぼくが自分自身について語るとき、そこで語られるぼくは必然的に、語り手としてのぼくによって――その価値観や、感覚の尺度や、観察者としての能力や、様々な現実的利害によって――取捨選択され、規定され、切り取られていることになる。とすれば、そこに語られている「ぼく」の姿にどれほどの客観的真理があるのだろう? ぼくにはそれが非常に気にかかる。というか、昔から一貫して気にかかってきた。
しかし世間の多くの人はそのような恐怖なり不安なりをほとんど感じていないように見える。人々は機会があれば、驚くほど率直な表現で自分について語ろうとする。たとえば「わたしは馬鹿がつくくらい正直で開けっぴろげな人間なんですよ」とか、「わたしは傷つきやすく、世間とうまくやっていくことができない人間です」とか、「わたしは相手の心を見抜くのがうまい人間です」とか、そういうことを口にする。でもぼくは「傷つきやすい」人間が、他の人々の心を無用に傷つけるところを何度も目にしてきた。「正直で開けっぴろげ」な人間が、自分では気がつかないまま都合の良い理屈を振りまわすところを目にしてきた。「人の心を見抜くのがうまい」人間が、見え透いた口先だけの追従に手もなくだまされているところを目にしてきた。とすれば我々は実のところ自分についていったいなにを知っているというのだろうか?
そういうことを考えれば考えるほど、ぼくは自分自身について語ることを(もしそうする必要があるときでも)、保留したくなった。それよりはむしろぼくという存在以外の存在について、少しでも多くの客観的事実を知りたいと思った。そしてそのような個別的な事柄や人物が、自分の中にどのような位置を占めるかという分布なり、あるいはそれらを含んだ自己のバランスのとり方なりを通して、自分という人間存在をできるだけ客観的に把握していきたいと思った。(pp.84-86)
また、松田恵示「演技する――役柄としての〈男〉と〈女〉」(in 伊藤公雄、牟田和恵編『ジェンダーで学ぶ社会学』、pp.112-125)から引用;

ふつう私たちは、私の身体はごく当然のこととしてここに「ある」、と思っている。でも、これは少し変だ。なぜなら、私がここに「ある」と思ってる私自身の身体を、私はすべて見ることができないからだ。たとえば自分の「顔」を自分ではけっして見ることができない。なのに、見たこともない自分の「顔」を、あなたは何も迷わずここに「ある」と思っている、ということになる。もちろん、何も「見る」ことだけが「ある」という実感を支えているわけではない。しかし、ここで「見る」ということを例にして強調したいのは、そもそも身体を対象として(たとえば「見る」というように)把握しようとしている当の〈身体〉は、どうしても原理的に対象化することはできない、ということなのである。しかし、それでもあなたは、「だって鏡をのぞきこめば見ることができるよ」と反論するかもしれない。それはまったくその通りだ。でもそれは、もしこの世界から「鏡」がなくなってしまえば、あなたはあなた自身の身体を、ここに「ある」と、ごく当然のこととして思えなくなるということも意味している。つまりあなたの身体の確かさは、「鏡」の現象に依存しているというわけだ(鷲田清一「性の裳」『イマーゴ――セクシュアリティ』七―六、一九九六年)。(p.115)
ジェンダーで学ぶ社会学

ジェンダーで学ぶ社会学

鷲田先生の『じぶん・この不思議な存在』、それからそれに(ちょこっと)言及した「自分は自分をわかる?」*2というエントリーをマークしておく。
じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)