有害と無意味の間

承前*1

高橋維新「ショーンK氏について」http://seesaawiki.jp/w/mafirooo/d/%a5%b7%a5%e7%a1%bc%a5%f3K%bb%e1%a4%cb%a4%c4%a4%a4%a4%c6


高橋維新という方は全然知らなかったが、何でも弁護士で、お笑いについて書いていて、最近では爆笑問題太田光と大論争をしているらしい*2。また、やっているのは普通にblogなのに、何故かblogのサーヴァーではなくwikiのサーヴァーを使っているというのも面白いと思った。
それで、高橋氏曰く、


ではショーン・K氏が実際に何か間違ったことを言っていたかというと、それを指摘する声は今のところほとんど見ない。おそらく、コメンテーターとしての体裁は保てるだけの努力をして、きちんとそれっぽいことを言い続けていたのだろう。
 そういう意味では、誰かに実害を与えたわけではないので、ここまで叩かれるのがかわいそうだという声も聞くし、上記の努力を評価する声もある。ただこれは逆に、テレビのコメンテーターというものがいかに薄っぺらいことしか言っていないかということだと筆者は考えている。
 情報番組のコメンテーターに与えられているコメントの尺は、非常に短い。短いので、爪痕を残すには何らかの工夫をしなければならない。笑いをとるというのは一つの手法だが、真面目な情報番組では忌避される。ドナルド・トランプのように、極端なことを言うというのも一つの手法である。中国人が殺人を犯したというニュースを受けて、「だから中国人は全員国に送り返して国交を断絶すべきなんですよ」というコメンテーターがいれば、少なくとも耳目を引くことはできるだろう。
 ただ、極端な言説というのは、大抵の場合間違いである。正当な結論は、通常はもっと穏当なところにある。しかしこの穏当な結論というのは、穏当であるがゆえに結論それだけを提示しても「何を当たり前のことを言っているんだ」という感想を与えることしかできない。「中国の方にも犯罪に走る方とそうでない方がいるのだから、そこはきちんと区別すべきでしょうね」などというコメンテーターがいても、「そりゃそうだろう」としか思わないのではないだろうか。
 穏当な結論は、その根拠やそれが導き出される議論の過程を紹介するとおもしろい場合があるが、そんなとこまで話を広げるのはあの短い尺では不可能である。結果、テレビのコメンテーターという枠は「極端なことを言う人」と「穏当なことを言うけど(おもしろくない)人」で支配されることになる。前者は、間違いの言説を公共の電波でがなり立て続けるという意味では有害ですらあるし、後者は存在意義がない。
なるほど! と一応頷いてみせる。勿論、TVの情報(報道)番組というのは「尺」(時間)の問題があって、この「有害」か然らば無意味かという問題が露骨に出るのだろうけど、ちょっと緩く考えれば、これはTVだけではなく、メディア一般の問題だということができるだろう。さらに、これは現代社会において、所謂〈公共知識人(public intellectual)〉*3の存在は可能なのかという問題にも繋がっているのだと思う。