- 作者: 中村真一郎
- 出版社/メーカー: 新潮社
- 発売日: 1995/09
- メディア: 文庫
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中村真一郎の「顔」(in 『女体幻想』)について、「語りが三人称から一人称に途中で転換」し、「その転換それ自体が短篇の重要な要素となっており、また没頭という世界に対する関係を巡る優れた現象学的考察(及び演劇論)になっている」と書いた*1。
冒頭の部分を抜書きしておく;
また、
……その時、彼の眼のまえの広い、奥行の深い舞台が、突然に明るすぎる眩しい光に満ちた。
そして、その光の氾濫のさなかに、それぞれ少しずつ濃度の異なる朱色の、一枚の布を頭から被ったような、光線の透きとおる単純な衣裳に包まれた三人の妖精が、舞台の中央に風に吹きよせられるように踊り出てきた。
彼女たちは――それは明らかに、肩の線や、素足の感じからして、いずれも女優によって演じられているのは確実なのだが――透明な衣裳を羽のように飜しながら舞台前面に、こちらを向いて足並みを揃えたのだが、その時、彼の視界の中央に極端な厚化粧のように、無表情な真白な面が並んで飛びこんで来た。
その三つの、生命の通わない、不気味な仮面の、四角ばった平らな――本来、人間や動物は感情を表現すべき凹凸を顔面に必ず持っているのだが、そのすべての盛り上がりや窪みを消し去った――幾重にもペンキを塗りたくったようなものは、高い頭上からまぶしい照明を浴びて、そこに小さな空虚な空間を三つ並べて、建物の窓のように現出したのだった。
その三つの、人間的あるいは動物的感情を故意に消却しているのを誇示した、厚く塗られた白い四角なものは、今までの芝居の進行のリズムに従って、自然に流れていた彼の意識の表面に、不意に深い穴を穿った。
その三つの穴は、ぐさりと彼の意識の底にある、自我の層まで突き刺さり、そしてそれまで眠っていた、その深い層を目覚めさせ、その層の存在そのものに光を浴びせた。
その自我の層の主語を、今まで舞台に引きつけられて、芝居の進行に満たされていた意識の表面――それは客席のすべての人間に共通するもので、個々の自我から遊離していたのであるが――それを、今まで仮に彼と名付けていたのと区別するために、改めて私と呼ぼう。
芝居やオペラや能楽のために、観客の意識が舞台に集中する時、その意識は視聴きしている主体である私から離れて、純粋な客観的存在となるから、客席に坐っている私の肉体の外の彼の意識という方が正確になる。その純粋な恍惚状態を、忘我、我を忘れて舞台に惹かれると形容するのは、だから心理的には極めて正確であるわけだ。
この観劇中の忘我の意識のなかから、不意に舞台前面に現れた三つの窓のような「空虚な空間」が、その恍惚の意識の流れを中断して、その奥にひそむ私の存在を露わにしたという事実、私というひとつの肉体をめぐって、自我の中心にある私の意識と、そこから遊離した彼の意識と呼ぶ方が適当な心理の層が、私の精神を同心円的に二重に形成しているという事実に、突然目覚めさせたという非日常的な事件から、この小説は出発するのである。(pp.253-255)
大体、この精神の二重構造の問題を目覚めさせるのに、眼前の英国エリザベス朝の妖精劇*2は最適であったと言える。
イプセン以後の近代劇は、三つの壁のなかに、日常的現実の――それが私の意識の普段、流れている場であるが――そのそっくりの模型を再現することによって、元来は人を夢見させ、自分の自我から遊離させるという演劇の本質的な快楽を著しく低下させた、と私は日頃から痛感している。(p.255)
*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20160225/1456370001
*2:「フェアリー・ドラマ」というルビ。