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Dr. John Ske-Dat-De-Dat: The Sprit of SatchBebel Gilberto*1 Tudoを買う。

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そして偶々、


Gavin McOwan “Bebel Gilberto: my favourite places in Rio de Janeiro” http://www.theguardian.com/travel/2014/sep/27/bebel-gilberto-favourite-places-rio-the-way-i-see-it


という記事を読む。これは地元民 Bebel Gilbertoお薦めのリオ・デ・ジャネイロという趣のインタヴュー記事。
リオ・デ・ジャネイロについて、レヴィ=ストロースは『悲しき熱帯』*2の中で、以下のように述べている。例えば、


(前略)リオの景観は、私には、自分の寸法に合っていないように見える。パウン・デ・アスカル、コルコヴァッド――あれほど賞めそやされた場所のすべては、入江に入っていった旅人である私の目には、まるで抜歯した四隅に取り残された歯の根のように見えた。ほとんど絶え間なく、泥のような熱帯の霧に浸されて、これらの地理的偶然の産物は、それで満たされるには広大すぎる地平線を、飾り付けられずにいる。もしその景観を一望のもとに収めようとするならば、入江の反対側から、つまり高みから入江を見下ろすようにしなければならない。海に向かって見るならば、ここではニューヨークとは逆の錯覚が生まれる。造船所のような光景を呈しているのは、自然の方なのである。
それゆえ、リオの入江の広大さは、目に見える標識の助けによっては認知することはできない。船の緩やかな前進、島々を避けるための操縦、丘の上に散らばった森林から突然舞い降りて来る、冷ややかさと馨しさ――それらは、実体としてはまだ存在していないが、すでに一つの大陸の顔かたちとして旅人に予感される花だの岩だのを、前もって感覚に与えているのである。(後略)(pp.123-124)

リオ・デ・ジャネイロは、普通の町のようには造られていない。最初、入江を縁取っている平坦な沼沢地に造られ、次いで嶮しい小山のあいだに入り込んで行ったのだが、これらの小山は、小さ過ぎる手袋が指を締めつけるように町を締めつけている。時には二、三十キロにも達する都会の触手が、傾斜が嶮し過ぎてどんな植物も縋り付いていられない花崗岩層の麓まで、滑り込んでいる。それでも時として、孤立した台状の岩の上や深い縦の裂け目の中に、森の離れ小島が出来ていることもある。そうした森は町に近くても人の行けない場所にあるだけに、処女林であることが確からしく思われた。飛行機から見ると、このみずみずしく、しかもどっしりとした隘路で、飛行機が木の枝に触れるのではないかと思われる。そして、この豪奢な綴れ織のあいだを縫って飛んだ後、その足元に着陸するのである。この町は、こんなにも丘陵に恵まれていながら丘を蔑ろに扱っており、このことは、たとえば丘の上に水がないことにも表われている。この点でリオは、ベンガル湾チッタゴンの反対だ。チッタゴンでは、沼の多い平野に円錐形の小山が橙色の年度の地肌を緑の草の下で光らせ、その一つ一つが孤立したバンガローを載せている。これらのバンガローは、重苦しい暑さと沼地の不潔さから身を守る金持ちの砦なのである。リオでは、それが逆になっている。花崗岩が鋳物のような塊になって付着している。いぼいぼのこれらのお椀帽子は、あまり激しく熱気を照り返すので、谷間を循環している微風は昇って来ることができずにいる。恐らく今では、都市計画がこの問題を解決したことであろう。しかし一九三五年には、リオでは、各人が社会の序列の中で占めていた地位は、高度計で測ることができた。地位が低いほど、住居は高いところにあった。貧しい人々は、丘の上に鳥が止まったようにして暮らしていた。そこはファヴェーラスと呼ばれ、洗い晒しのぼろを纏った黒人の住民がギターであのきびきびした旋律を生み、それらの旋律は、カーニバルになると黒人と一緒に丘を降りて町に侵入して行くのだ。
丘のあいだにその曲折をのめり込ませている街路のどれか一つを辿って行くと、眺めはたちまち場末じみてくる。リオ・ブランコ大通りのはずれにあるボタフォゴ、それはまだ高級街のうちだ。だが、フラメンゴを過ぎてからは、ヌーイに来たような錯覚に捉われるし、コッパカバーナのトンネルに近いあたりは、二十年前のサン・ドニやル・ブルージュのようなもので、そのうえ第一次大戦前のパリ郊外がそうであり得たように、田舎風の一面ももっていた。今では高層ビルで針鼠のようになったコッパカバーナに、当時私は、それなりの商業活動や店舗のある、地方の小さな町を見出したに過ぎなかった。
私がブラジルを引き払う時の、リオの最後の思い出は次のようなものだった。コルコヴァードの山腹にあるホテルに、私はアメリカ人の同僚を訪ねた。そこに行くには、倒壊物のあいだに、半ば車庫、半ば山頂の避難所といった恰好でざっと拵えてある、そして恭しく下僕が操縦しているケーブルカーを利用した。それは一種のリュナ・パークとでも言うべきものだった。こうしたすべてが、丘の上に到達するためにしつらえられており、不潔で石だらけの、しばしば垂直に近い斜面になっている空地に沿って引き上げられると、帝政時代の小さな邸がある。テーレアつまり平屋で、化粧漆喰で飾り黄土を塗ってある。夕食をした見晴台は、セメントの建造物と荒屋と、ごみごみした市街との、不調和な混合を見下ろすテラスという恰好だった。それに加えて突き当たりには、このちぐはぐな眺望の行き止まりとして期待してもよさそうな工場の煙突の代りに熱帯の海が、明るく輝き、繻子のように艶やかで。怪異な月光を浮かべた海が、あるのだった。(pp.139-141)
悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

悲しき熱帯〈1〉 (中公クラシックス)

リオ・デ・ジャネイロにおける標高と社会階層の関係について述べた箇所は、たしか山岸健『日常生活の社会学』に引用されていたのを読んだのが最初だと思う。レヴィ=ストロースの予測に反して、現在のリオでも「地位が低いほど、住居は高いところにあ」るのではないか。例えば、Carlos Saldanhaの『ブルー 初めての空へ』*3を観てもわかる。
日常生活の社会学 (NHKブックス 309)

日常生活の社会学 (NHKブックス 309)