磐船神社或いは私市

『朝日』の記事;


「岩窟めぐり」で転落死か 大阪の神社で女性死亡

2014年9月21日00時11分


 20日午前11時55分ごろ、大阪府交野市私市(きさいち)9丁目の磐船(いわふね)神社で、大阪市平野区加美東5丁目、介護士井崎真由美さん(42)が敷地の岩場で倒れているのが見つかった。頭を打っており、搬送された病院で死亡が確認された。同神社は岩場を歩く「岩窟めぐり」が「秘境スポット」などとして知られる。府警は井崎さんが岩の間に落ちたとみて調べている。

 交野署によると、井崎さんは、高さ約2メートルの岩の間にかけられた丸太橋(幅約20センチ、長さ約1・7メートル)の下で見つかった。井崎さんはこの日午前10時20分ごろに1人で入り、出てこないため宮司が捜していたという。

 磐船神社によると、岩窟は修験者の行場で、1933年に一般にも公開された。歩いて約20分のコースで年間約5千人が訪れるという。約10年前に参拝客がコースを外れて転落死する事故があったという。西角明彦宮司(50)は「安全対策を施すまで閉鎖する」と取材に述べた。
http://www.asahi.com/articles/ASG9N76DVG9NPTIL01N.html

また、『毎日』の記事;

<転落死>岩窟めぐり中に女性が 大阪・交野の神社

毎日新聞 9月21日(日)6時17分配信


 20日午前11時40分ごろ、大阪府交野市私市(きさいち)9の磐船(いわふね)神社の岩場で、大阪市平野区加美東5、介護士、井崎真由美さん(42)が倒れているのが見つかった。井崎さんは頭などを打っており、病院に搬送されたが死亡した。大阪府警交野署は、井崎さんが敷地内の岩場を歩く「岩窟めぐり」をしている途中、誤って転落したとみて調べている。

 交野署によると、井崎さんは、高さ約2メートルの岩と岩をつなぐ丸太(幅20センチ、長さ1.6メートル)の下で見つかった。午前10時20分ごろから1人で岩場に入ったが、戻って来ないため、宮司が様子を見に行ったという。

 神社のホームページなどによると、岩窟はかつて修験道の行場で、最近は観光客が訪れるスポットになっていた。【山本健太】
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20140921-00000001-mai-soci

交野市の「磐船神社*1について、Wikipediaの記述をコピペしておく;

交野市の南端、天野川の渓谷沿いにあり、「天の磐船」(あめのいわふね)とよばれる天野川を跨ぐように横たわる高さ約12メートル・長さ約12メートルの舟形巨岩を御神体としている。 本殿はなく、巨岩の前に小さな拝殿があり、南側(上流)に社務所がある。

神社の起源は不明であるが、天照国照彦天火明奇玉神饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと = 饒速日命)が天の磐船に乗って河内国河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨されたとの伝承がある。 交野に勢力を保っていた肩野物部氏という物部氏傍系一族の氏神であり、一族が深く関わっていたといわれている。 中世以降は、山岳信仰や住吉信仰の影響を受け、現在も境内には神仏習合の影響が色濃く残されている。

神社のすぐ横を磐船街道が通っている。 かつては国道168号線の一部であり、神社付近では道路幅が狭く、すれ違い渋滞の名所だった。川幅も巨岩が跨ぐほど狭く、過去にはたび重なる天野川の氾濫により、社殿・宝物などの流失が続き、防災上のネックとなっていた。1997年(平成9年)に道路改良工事と河川防災工事が竣工し、磐船神社に入る手前で道路と河川がバイパスされ、道路は新磐船トンネルを、河川は天野川トンネルをくぐることとなった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A3%90%E8%88%B9%E7%A5%9E%E7%A4%BE_%28%E4%BA%A4%E9%87%8E%E5%B8%82%29

ご神体の「天の磐船」というのは所謂UFO信者の方々にもお馴染みのものだろう。それよりも気になったのは「私市」という地名。「きさいち」と念む。坂本英彰という人が『産経新聞』に書いている;

〈私市〉山懐に抱かれた京阪電車の終点駅 
2012.5.24 11:00 (1/2ページ)[難読地名辞典]


 「私の市」とはどことなくロマンチックな名称だが、もちろん「わたくしし」などと読むのではない。「きさいち」が正解だ。難読地名としては横綱級だろう。京阪電鉄の駅名にあるから、その漢字だけを見て首をひねったひとも多くいるに違いない。

 ともあれ、私市を目指す。枚方市駅から乗り換えて10分あまり。交野市(かたのし)に入り住宅街の間に田畑がひろがってきたと思ったら、終点の私市に到着した。とんがり屋根のかわいい駅舎は、生駒山系の山懐に抱かれたような景観によくマッチしていた。

 駅から5分も歩けば淀川に注ぎ込む天野川が流れ、橋を渡ったところに大阪市立大学理学部の付属植物園があった。看板を見れば戦前は、大陸に移住する「満蒙開拓団」の訓練施設だったという。こんなところにひっそりと近代日本史がたたずんでいた。

 あたりは農村に新興住宅地が進入した典型的な郊外だが、農家風の家屋も多く牧歌的な雰囲気が漂う。どこかほっとさせられるのは、日本の原風景的なものの残り香を感じるからだろうか。
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120524/wlf12052411010007-n1.htm

さて、問題は「私市」の由来だ。あたりを歩き回ってもそれらしきものは見あたらなかった。この不思議な名はどこから来たのか。

 仕方なく書物に頼る。地名辞典などによると「きさ」は「后」に由来するという。皇后のことだ。このあたりは古くは皇后領だったという。皇后のために農耕などを行う人々を私部(きさいべ)と呼んだそうだ。

 中心的な村が私部内(きさいべのうち)と呼ばれ、これがやがて私市と書かれるようになった。読みも訛って「きさいち」になったという。

 交野市内には私市とともに、私部(きさべ)という地名もある。

 山を越えれば奈良県生駒市だ。国道の交通量はけっこう激しく、ここが古代から交通至便な土地にあったことをうかがわせる。いにしえの皇后領と知り、穏やかなたたずまいも一層麗しく見えきた。(坂本英彰)
http://sankei.jp.msn.com/west/west_life/news/120524/wlf12052411010007-n2.htm

「きさいち」の「きさ」はキサキ(妃、后)に由来するらしい*2。しかし、何故それが「私」という字と結びつくのかということはわからない。
実は「私市」というのを初めて知ったのは地名としてではなく苗字としてだった。例えば『イスラム聖者』*3などをものした歴史学者の私市正年氏などがいる。
イスラム聖者―奇跡・予言・癒しの世界 (講談社現代新書)

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