『アサッテの人』

アサッテの人 (講談社文庫)

アサッテの人 (講談社文庫)

旅先で諏訪哲史『アサッテの人』を読了。
この小説を乱暴に要約してしまえば、「私」には郊外の団地から突然失踪してしまった「叔父」がおり、「私」は「叔父」の残した3冊のノート及び「叔父」についての個人的な記憶を使いながら、「叔父」のことを(『アサッテの人』というタイトルで)小説化しようと試みるが、結局その試みは挫折するという筋である。所謂「メタ・フィクション」。小説を書くこと(の挫折)についての小説。さて、気になったのは、そもそも「叔父」を小説にしようとした動機がわからないことだ。そんなことは、「私」或いは作者にとっては態々説明するまでもない自明な事柄なのかもしれないが、普通に考えて、いくらけったいな親戚がいたからといって、彼(彼女)について、それが何らかの文字へと昇華されるべきだとしても、小説を書くというのは自然でも必然でもない。『アサッテの人』の中でも、「叔父」の妻(「私」にとっての叔母)である「朋子さん」は「叔父」の奇妙な言語に遭遇して、〈言語学者〉としての観察・省察をしているし(p.52ff.)、「私」にしたって、「叔父」のノートに対して先ず取るのは〈小説家〉ではなく〈文献学者〉としての態度だった。何が言いたいのかといえば、この小説は 小説を書くこと(の挫折)についての小説ではなくて、、〈言語学者(文献学者)〉の誕生(或いはその挫折)についての小説でもあり得たのだ。 また、小説を書くこと(の挫折)についての小説でありながら、「私」に*1小説を書かせる動機或いは衝動について反省されていないのがいちばんの不満なのだ。勿論、吃音*2のことを初めとして、真摯な省察や鮮烈なイメージが鏤められていることは認めなければならない。
ところで、「アサッテ」といえば、東海林さだおの『アサッテ君*3東海林さだおの「叔父」さんへの影響や如何に?

『アサッテの人』とほぼ同時に山室信一日露戦争の世紀』も読了。