佐世保ではなく豊川!

承前*1

id:nesskoさんの「「人を殺してみたかった」といって何の関係もない家に侵入して高齢者を殺した男子中学生の事件がありましたね。(高校生だったかな?)」*2という問いに対して何だか頓珍漢なレスポンスをしてしまったようだ。
佐世保ではなく豊川で起こった事件ですよね。ちょうど藤井誠二氏が豊川の事件について書いています;


「「人を殺してみたかった」少年が起こした「体験」殺人事件を取材した者として、いま思うこと」http://bylines.news.yahoo.co.jp/fujiiseiji/20140804-00037967/


藤井氏は豊川の事件について、『人を殺してみたかった──愛知県豊川市主婦殺人事件』という本を書いているようですが。
曰く、


佐世保で起きた女子高校生による同級生殺人事件の一報を聞き、加害女子生徒が捜査員に供述したとされる動機として「人を殺してみたかった」という言葉を耳にしたとき、とっさに二〇〇〇年に愛知県豊川市で起きた男子高校生による老女殺人事件を思った。その加害少年も動機を「人を殺してみたかった」と捜査員に語ったのだった。佐世保事件の加害少女の「人を殺してみたかった」という供述のあとに次々に報道される彼女の「言葉」や彼女の態度は、気味が悪いぐらいにすべて私が予想したもの通りだった。それは豊川事件の加害少年の語った言葉と瓜二つだったからである。正直、ゾッとした。

私は二〇〇〇年当時、家裁で審判を受け実相が封じこめられてしまう状況にあったこの事件をなんとかして掘り起こしたいという思いで取材を続けていた。少年法にのっとって家裁で保護処分になれば、事件の実相は封印されてしまう。


佐世保事件の加害少女は「人を殺してみたかった」という供述の他にも、「人を解剖をしてみたかった」、「人を殺したいという欲求が中学生の頃からあった」等と供述していると伝えられ、反省の色は見られないという。

豊川事件の加害少年が、殺人を犯したあとに逃走したが、疲労困憊し名古屋駅前の派出所に出頭した。その後に豊川署に移送されるとき、警察車両の中で顔を隠さず、堂々と正面を見据えていた。悪びれた態度はなく、反省の言葉もなかった。

なぜ加害少年が通っていた高校近くに住む老女を狙ったのかと捜査員から問われると、「どうせ殺すなら、将来の時間のある若い人よりも、将来の時間の短い老人がいいと思い、老人が住んでいそうな家や表札を見て選んだ」という主旨のことを悪びれることなく話した。

さらに、藤井氏は、豊川事件の「ナオヒデ」(仮名)が語った「「人を殺してみたかった」という「動機」」が捜査員とのやりとりの中で構成されていったものであることを述べている。恐らく、殺人の動機、さらに動機の土台たる犯人の人格が、犯人自身の言説、警察官、精神医学者、弁護士、マス・メディア等の言説が錯綜する中で構築されていくというのは、社会学的な正しさを持っている。
ところで、「動機」以前に謎がある。どのような動機(目的)であれ、或いは動機(目的)などなくても、自ら手を下して人を殺めるということは、身体を有した生身の他者を身近に経験してしまうということである。流血を通じて、或いは悲鳴や苦痛の表情を通じて。その他者経験を如何に乗り越えるのか。今回の佐世保での事件に関して不思議なのは、誰もこのことを不思議がっていないということなのだ。
2008年に加藤智大が秋葉原で無差別殺人をやらかしたとき、内田樹氏は

今回の秋葉原の事件に私が感じたのは、犯人が採用した「物語」の恐るべきシンプルさと、同じく恐るべき堅牢性である。

人を殴ろうとしたことのある人なら、他人の顔を殴るということがどれくらいの生理的抵抗を克服する必要があるかを知っているはずである。

そこに生身の身体があり、その身体をはぐくんできた歳月があり、親があり、子があり、友人知人たちがあり、彼自身の年来の喜び悲しみがそこに蓄積しているということを「感じて」しまうと、どれほどはげしい怒りにとらわれていても、人を殴ることはできなくなる。

人間の身体の厚みや奥行きや手触りや温度を「感じて」しまうと、人間は他人の身体を毀損することができない。

私たちにはそういう制御装置が生物学的にビルトインされている。

他人の人体を破壊できるのは、それが物質的な持ち重りのしない、「記号」に見えるときだけである。

だから、人間は他者の身体を破壊しようとするとき、必ずそれを「記号化」する。

「異教徒」であれ、「反革命」であれ、「鬼畜」であれ、「テロリスト」であれ、それはすべての人間の個別性と唯一無二性を、その厚みと奥行きとを一瞬のうちにゼロ化するラベルである。

そこにあるのが具体的な長い時間をかけて造り上げられた「人間の身体」だと思っていたら、人間の身体を短時間に、「効率的に」破壊することはできない。

今回の犯人の目にもおそらく人間は「記号」に見えていたのだろう思う。

「無差別」とはそういうことである。

ひとりひとりの人間の個別性には「何の意味もない」ということを前件にしないと、「無差別」ということは成り立たない。

http://blog.tatsuru.com/2008/06/11_1020.php

と述べた。それに対して、

ここでは、敢えて内田氏の考察に疑義を提出してもみたい。あらゆる経験は(それが有意味なものである限り)何らかの「記号」抜きには存立し得ないだろう。つまり、他者を含む世界内の存在者たちは類型化されたもの(何かしらの一般項に媒介されたもの)として私に現れてくる。それがあるものを例えば人として、或いは虫として経験するということだろう。しかしながら、同時に私は私が経験しているものが「記号」などではないことも承知している。それは、李晟台氏が『日常という審級』において述べているように、「類型化されるものは、類型化によって捉えきれない何かを指し示す」ということがあるだろう*3。しかし、さらに手前のレヴェルを考えることができる。或いは、「そこに生身の身体があり、その身体をはぐくんできた歳月があり、親があり、子があり、友人知人たちがあり、彼自身の年来の喜び悲しみがそこに蓄積しているということを「感じて」しまうと、どれほどはげしい怒りにとらわれていても、人を殴ることはできなくなる」ということよりも手前のレヴェル。それは物理的な抵抗だろう。誰かを殴れば私も手が痛い。また、ナイフで刺すにしても、ナイフが他者の皮膚を、また脂肪を刺し貫こうとするとき、やはり物理的抵抗を受けないことはない。さらに、他者の悲鳴や呻き。また、血、返り血。これらから、それが「記号」ではなく「生身の身体」であることを了解するのに大した想像力は要らないだろう。殺戮の技術は、殺す者の衝撃というか〈心の痛み〉に配慮して、殺される者の「生身の身体」を隠蔽する方向で進歩してきたともいえる。また、直接殺される者の「生身の身体」に対峙することに耐えられないから、多くの場合、殺したい者は必殺仕掛人とか刑務官(死刑執行人)等々の〈プロ〉に委ねる(押し付ける)ことになる。加藤智大は敢えて(?)犠牲者の悲鳴とか返り血を引き受けた。勿論、日本では飛び道具を合法的に入手することは難しいということはあるかもしれないが、何が加藤智大に犠牲者の悲鳴とか返り血を引き受けさせたのか。それはわからない。ただ、「記号化」ということでは答えにまだなっていないということはたしかだが。
とコメントしたのだった*4