ファスト・フードと器(メモ)

「同志たち、ごはんですよhttp://d.hatena.ne.jp/ziprocker/20121211


このエントリーの中の食べ物はどれも美味しそうだし、料理たちが盛られている食器も、食べ物という図に対する地として絶妙な働きをしている。料理を差し置いて自己主張するわけではないけど、何時地と図が反転して視線を浴びてもいいように心構えはしている、という感じか。
少しメモ。


そして、決定的に、僕が外食をできなくなった理由は、器の醜くさに耐えれられないということにつきる。ファーストフードに包装紙はあっても器はない。ピザやホットドックハンバーガー、おにぎりに食器が無いのは、食器による階級制や、作法や制度、民族的な差異を消去し、手で食べるという普遍性を強制するからだ。かって器たちは強固なローカリティと伝統に根付き、その中でこそ静かな、力強い生を保っていた。しかし、江戸初期から中期にかけて仁清、乾山以降の京焼の担い手たち、潁川、木米、保全以降の作家達が交趾や三島、祥瑞、唐津と、あらゆるものを「写す」ことができるようになると、ローカリティは消滅する。京焼にオリジナリティが存在しないのは仁清と乾山という作家的なオリジナリティはあっても、土地に根差したオリジナリティが希薄な上、コピーのコピーでしかないというポストモダン的な性質を最初から持っていたからだ。もちろん伝統と地域性から切り離されたその特性こそが、初期京焼のオリジナリティだったのだろうが。

グローバリゼーションとして焼き物の歴史を考えると、民族や国家の興隆と荒廃、スタイルの先鋭と堕落の流転を思わずにはいられない。これから先の世界、この文明が100円ショップのトンネル窯で作られた器と、コンビニやファーストフード店の食糧を包んでいる包装紙しかゴミとして残さないのかと思うと唖然とする。古い物はゴミさえ美しい。未来のさらに先の未来の人々は、マクドナルドのゴミにさえ、美しさを見出し、高値をつけるのだろうか? 中野のまんだらけとかでビックリマンチョコのシールやキン肉マン消しゴムとかが恐ろしい値段で売られているのを見ると、すんなり、そうなってしまいそうで、怖いのだが、その未来の人たちはもう点滴注射とかで食事?をしていて、食器自体が文明から消えてしまっているような状態になっているかもしれない。
「ファーストフードに包装紙はあっても器はない」。まあ標準的な答えは、洗うコストをカットするため、ということになるのだろう。また「ファーストフード」による食事作法の解体は、特に(例えば)仏蘭西のようなテーブル・マナーが階級の標識として強固に機能しているような社会(文化)において、そのような〈マナー〉に到達できない階級を出自とする人たちにとっては、或る種の〈解放〉なのだとも言える(Cf. 桜井哲夫『サン・イヴ街からの眺め』)。英国社会において米語を話すことが〈階級社会〉からの超越感をもたらすというのと同様か(Cf. 由良君美『言語文化のフロンティア』*1)。
言語文化のフロンティア (講談社学術文庫)

言語文化のフロンティア (講談社学術文庫)

ここで語られている焼き物についての蘊蓄をどうこう言う教養は(俺には)ない。ただこのエントリーの食器の写真に注目したのは、俺が日常的に使っているIKEAの器とのギャップに唖然としたということがある。勿論IKEAのモノトーンの食器は決してださいものではない。例えば、有機的な木のテーブルの上に置けば、その如何にも無機的な感じはよく映える。しかし残念ながら、食べ物との関係で絶妙な働きをするということはないのだ。