「散歩」/「思索」(内田芳明)

思策の散歩道―都市風景と文化への散策

思策の散歩道―都市風景と文化への散策

内田芳明「思索の散歩道 序にかえて」(in 『思索の散歩道 都市風景と文化への散策』思潮社、1989、pp.9-17)からちょっとメモ。


ところで「散歩」とは何であろうか。
ここで散歩の哲学めいたことを一寸考えてみたくなるのだが、「散歩」とは先ずはゆっくり歩くことである。ゆっくり歩くとは、立ち止まること、道草を食うこと、脇道にそれること、身近のものを見ること、小さなことにこだわること、そして深く思うこと、考えること−−思索すること−−である。散歩の敵は速度である。(後略)(p.12)
ここで劇作家の太田省吾*1の『劇と希望』が援用される。例えば、「立派な散歩とは、目的に向かう歩調とはっきりちがった歩調をとるということであり、時間*2を変えることによってふだんとちがった光景を得るということである」。「早足の目に入る世界と散歩の目に入る世界とは異なる」。内田の文章に戻ると、

ところで今日の文明が道路文明になったということは、道がゲゼルシャフト(利益社会)にもっぱら奉仕する目的道路になり、通過道路になったということだ。つまり途中は何も見ないし、見えないということである。私たちは途中や道程や道行きや過程が、人生においても文化の創造活動においても大切だと考えている。生きるということは、生の過程の中でそれぞれの時と場所において出来事となるような個性的な生を生きるということであろう。ところが「通過道路の文明」は、これら中間のものを一切無意味化してしまう。目的地に早く到達することだけが追求されているわけである。
そしてその目的とか目的地とか言われているものが、よく考えてみれば案外と価値のないこと、無意味なこと、空虚なこと、であったりするのだが、「速度の文明」「通過道路の文明」においては、そういうことを根本から問うことができなくなってきている。とにかく生にとっては中間的なもの、過程的なものが大切でありそこに価値があるのだすると、「速度の文明」はますます生の貧困化をもたらしつつあるものだ、ということになるだろう。(p.13)
また、

「散歩」には一つのリズムがあって、それはゆっくりと歩いて遠くを見ることと近くを見ることの交替のリズムなのである。このことは「風景」という生の構造のリズムともなっている。風景とは遠景と近景のリズムであり、遠感情と近感情のリズムであって、風景体験はこのようなパースペクティヴのなかで起る。そして「思索」というものも、これと似た構造を持っているのである。
「思索」とは、身近で平凡な事物、具体的で見慣れた事物、について驚いたり新鮮に問いかけたりする所から始まるのだ。身近で見慣れているもの、眼前に生きている単純で素朴なもの、そういうものに出会って驚き、そこにこだわることから始まるのである。だがよく考えてみると、こういうことが起るためには、矛盾したことを言うようだが、その日常的に見慣れたものによってダメになってしまっている私たちの目が、つまりは私たちの心と精神が、そういう既成の意味常識の支配から自由に解放されていなければならないであろう。そうでなければ私たちが事物を見る時に、生々とした感性がそこに働くとか、新しい思考のひらめきの光が射し込んでくるとか、そういう体験を持つことはできないだろう。
ところで身近なものを新鮮に生きかえらせ、近くのものを照らし出すその「ひらめき」なるものが、外から、上から、遠くから来ることは明らかだ。近くを見つめる目と遠くを見つめる目とが、ここでも遠近の生のリズムとなって、思索の構造にもなっていることが知られるのだ。(pp.16-17)
「散歩」については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120702/1341247335も参照のこと。

*1:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070714/1184385189

*2:「テンポ」というルビ。