90年代的?

「『加治隆介の議』の最終回は加治隆介が首相に就任して、「国連を中心とした安全保障体制の確立と、そのためなら憲法改正も辞さない」という「所信表明演説」で終わるそうですが(p.246)*1、「国連を中心とした安全保障体制」云々というのは小沢っぽいといえるかも知れません」と書いたのだが*2、この「国連を中心とした安全保障体制」というコンセプトは1990年代的なものだよね。21世紀に入ると、特に911以降は、この「国連を中心とした安全保障体制」への信頼性が低下し、米国などが(自分勝手に)ことを起こす「単独行動主義」によって世界情勢が動くようになったのではないか(最上敏樹「国連は無力なのだから、国連中心の平和主義には意味がないのではないか」in 憲法再生フォーラム編『改憲は必要か』、pp.25-48)。

改憲は必要か (岩波新書)

改憲は必要か (岩波新書)

「国連を中心とした安全保障体制」というのは「集団安全保障」ということなのだろうけど、この「集団安全保障」と「集団的自衛権」を混同している人って少なくないのではないかと思うのだけど、如何だろうか。この2つは別物というか対立さえする概念であり、水島朝穂氏曰く、

集団的自衛権は、自国と密接な関係(「死活的利益」を共有する関係)にある外国に対する武力攻撃を、自国が攻撃されていないのにもかかわらず、実力をもって阻止する権利のことです。あえて言えば、集団的自衛権は、国際社会における積極的な「宝」などではなく、「仮想敵」を持つ軍事同盟としての「過去」を引きずる歴史的遺物であると同時に、国連の集団安全保障の理想に反する異物でもあります。集団的自衛権を肯定する人でも、将来的には抑制・克服されるべき「必要悪」と見る人も少なくありません。ですから、「持っているけど使え(わ)ない」というのは決しておかしなことではなく、一つの見識なのです。(後略)「現実と遊離してしまった憲法は、現実にあわせて改めた方がいいのではないか」(『改憲は必要か』、p.157)
因みに、「集団的自衛権」を先頭になって叫んでいたのは安倍晋三(p.150ff.)。