山之内一郎という人(メモ)

北の友へ南の友へ―朝鮮半島の現状と日本人の課題 (あごら叢書)

北の友へ南の友へ―朝鮮半島の現状と日本人の課題 (あごら叢書)

和田春樹*1「戦後日本における社会科学研究所の出発」*2(in 『北の友へ南の友へ 朝鮮半島の現状と日本人の課題』、pp.249-275)


1946年に設立された東京大学社会科学研究所の設立とその初期の活動を担った人々について。特に山之内一郎、矢内原忠雄*3宇野弘蔵*4を巡って。この3人の中で、山之内一郎という人については全く知らなかった。


山之内さんは東大の助手をしたあと、一九二二年に九大の助教授になられ、ドイツに留学されました。ドイツでは、森戸辰男、向坂逸郎の両氏、それに宇野弘蔵さんなどと御一緒でした。そこでマルクス主義の文献、ソヴェト法の文献を大いに読まれたのです。当時は国崎定洞氏のように医学部の助教授で留学し、ドイツ共産党に入党して、ついに日本に帰らないという人も出ました。山之内さんは二五年に帰国されました。マルクス主義に対して非常に強く確信をもっておられて、この考えから九大で講義をされたので、はやくも一九二七年に文官分限令で追放されてしまいます。思想弾圧のはしりの状況です。その後ロシア語を学んで、外務省に入り、戦争中はずっと外務省調査部の嘱託をしておられました。外務省の調査部は異色のところで、戦後平和委員会で活躍される尾形昭二氏が課長をしていて、一緒に働いていたのは的場徳三氏や阿部重雄氏らです。山之内さんは、戦時中にソ連視察に行かれ、政府の移ったクイブイシェフに滞在されました。
マルクス主義者−−あるいは共産主義者といった方がよいかもしれません−−としての信念を強く持ち、早く大学を追放され、外務省の嘱託をして時節を待っていた山之内さんが、戦争が終ったとき、これを「解放」として歓迎した、われわれの勝利、われわれの時代の到来として迎えたということは、当然すぎるほど当然のことであったと思われます。
山之内さんは戦争が終ったときは、外務省が疎開していた宮城県の宮村におられたのですが、四五年のうちに東京に出てこられて、ソビエト研究者協会をいち早く組織するために活躍されました。当時は民主主義科学者協会の設立も進められておりました。山之内さんは、民科の機関誌の創刊号に寄稿するようにとの手紙をもらったので、原稿を送ったと述べておられます。それが、四六年三月に出ました『民主主義科学』の創刊号に書かれた「ソビエト憲法の民主主義的基調」という論文です。これは、戦時中に『改造』に書かれた「ソビエト憲法民主化」という論文の延長線上にあるものです。のち山之内さんの論文集『社会主義国家の法』に入りました。それから少し紹介すると、次のような調子のものです。
「それの創造者の名によってスターリン憲法と称ばれる現行ソ連邦憲法は、徹底せる民主主義の憲法である。スターリン自身、ソ連邦憲法草案に関する報告において徹底的な且つ一貫せる民主主義を新憲法の特質として指摘した。しかし、スターリン憲法の民主主義的な性格を的確に把握するためには、ソビエト民主主義の本質ならびにソ連邦における階級構成の現実を把握することなくして不可能である」。
山之内さんは、純粋民主主義の欺瞞性、これに対して、プロレタリア民主主義の真の民主主義的性格を強調しておられます。「ソビエト民主主義というのは勤労者の民主主義である。真の人民大衆の民主主義である」と述べ、結論においても、「スターリン憲法は、ソ連邦における発展せる徹底的な民主主義の勝利の事実に関する歴史的文献である」として、スターリンの言葉の引用で終っているのです。
この論文は「宮城県宮村、一九四五年十二月八日」という日付になっています。開戦の記念日にこれを書いたというところには、日本軍国主義の敗北ののちにくるべきものは、社会主義共産主義でなければならない、日本の民主化も本当に徹底しようとすれば、スターリン憲法に表わされているような方向を求めていかなければならない、という山之内さんの真剣な考えが表われていたと考えられます。
これと同じような主張を山之内さんは四六年に『法律時報』にのせた論文でも展開されました。これが四七年に本になりました。蝋山政道*5がやっていた政治教育協会の国民大学文庫の一冊として出た『ソ連邦憲法』というパンフレットです。大体先にみた調子で書かれていて、最後が「独裁と民主主義」という節になっています。
山之内さんは、還暦記念座談会の中で、つぎのように述べておられます。『民主主義科学』創刊号に論文を書いたときは、「敗戦による日本の解放という時期にありましたので、非常に短い間にかいたのですが、大きい感激をもってかきました。……この論文を基礎として、ごく小さいものですが、『ソ連邦憲法』はまとめられたのです。……はじめは二千五百部刷ったのです。……黄土社になってから、よくおぼえていませんが、二千部以上でています。……講演などにいったときに、あの本を読んではじめてプロレタリア独裁について、またソヴェト民主主義についてはっきりした認識をもつことができた。これまで両者の関係がはっきりしなかったのだけれども、という言葉をきいたことも一度ならずありました」。(pp.260-262)
最後の部分で引用されている「還暦記念座談会」が行われたのが1955年7月、山之内一郎が社会科学研究所を退職したのが1956年3月。それと同じ月の蘇聯共産党第20回大会で「スターリン批判」が行われたのだった(p.pp.262-263)。