イアン・マキューアン『アムステルダム』

アムステルダム (新潮文庫)

アムステルダム (新潮文庫)

イアン・マキューアン*1アムステルダム』(小山太一訳)を読了したのは既に先週のこと。
この小説は1人の死で始まり、2人の死で終わる。最初は突如痴呆症に罹り死んでしまった「レストラン評論家、ファッショナブルな才人にして写真家、先端を行く園芸家で、かつて外務大臣に愛され、四十六の歳で完璧な腕立て側転ができた」(p.9)モリー・レインの葬儀。最後はモリー・レインのかつての恋人で作曲家クライヴ・リンリーと新聞『ザ・ジャッジ』の元編集長ヴァーノン・ハリデイの死。彼らの遺体をモリーの夫で出版社社長のジョージ・レインとやはりモリーの元愛人の元外務大臣ジュリアン・ガーモニーがアムステルダムに引き取りに行く。そして2人が遺体とともに倫敦(ヒースロー)に戻ってきたところで、この小説は閉じられる。
この小説を衝き動かしているのは〈小説的現在〉には不在であるモリー・レインである。モリーはジュリアン・ガーモニーの女装写真を遺していた*2。ジョージ・レインはそれをマスコミ各社に対してオークションにかけ、女装写真掲載のヴァーノンの『ザ・ジャッジ』が落札する。ヴァーノンとクライヴの友情は女装写真掲載の是非を巡って壊れてしまう。ガーモニーの女装写真を掲載した『ザ・ジャッジ』は反響を呼ぶが、ジュリアン・ガーモニーは妻ローズによる機転の利いた記者会見によってスキャンダルを乗り切る。この記者会見を契機として、世間の空気は逆転し、世間及び他紙は一斉に『ザ・ジャッジ』とヴァーノンを「ゆすりたかり」「虫けら」として非難し始め、ヴァーノンは社内でも孤立し、信頼していた部下にも裏切られ、『ザ・ジャッジ』を解雇されてしまう。彼は安楽死が合法化され、「安楽死」の名を借りた殺人も行われている和蘭アムステルダムでクライヴを殺そうとする。アムステルダムで新曲の初演を行うクライヴも実は同じことを考えていた*3
さて『アムステルダム』は英国の戦後世代の結末の物語として読むことができる。日本だと団塊の世代(或いは全共闘世代)*4、米国だとベビーブーマー*5ということになるのだろうけど*6、英国ではどう言っているのだろうか。ヴァーノンとクライヴは1968年に大学生だった。モリーは1965年に16歳で、紐育イースト・ヴィレッジで「ケルアック世代の最後の生き残り」の「ビート詩人」と付き合っていた(p.17)。ジュリアン・ガーモニーも同世代。ジョージ・レインの年齢についての言及はないが、世代がさほど違っているとも見えない。クライヴは自らの世代を、


(前略)「ぼくらの世代は」*7。大変なエネルギー、そして幸運。戦後の社会保障体制下、国家からミルクとジュースをたっぷり支給され、それから両親たちがおっかなびっくり踏みこんだ無邪気な繁栄によって育てられ、青年に達したのは、完全雇用、大学新設、明るい色のペーパーバック、ロック・アンド・ロールの全盛、そして理想実現の時代だった。のぼってきた梯子がくずれおれたとき、国家が援助の乳房をしまいこんでうるさいママになったときには、彼らはすでに安全を確保し、群れをなして、さて落ち着いていろいろなものを形成しはじめた――趣味や意見や財産を。(p.19)
と語っている。或る世代の、若き日々の政治的・文化的反抗と無茶から出世と保守化を経ての結末。特にその「理想」と良心の頽落。最後に生き残るのはジョージ・レインとジュリアン・ガーモニー。ガーモニーは(クライヴから見ると)、

(前略)モリーもこんな男のどこがよくて? 妙な外見の男だった。大頭、すべて白毛の黒いくせ毛、ひどく悪い顔色、薄くて愛敬のない唇。政治の市場では、外国人排斥・重罰主義を売り物にしてきた。ヴァーノンはガーモニーのことをつねに一言で片づけていた、糞ったれのお偉方、ベッドでハッスルしそうな奴。だが、それだけならガーモニーでなくてもいい。何かべつの隠れた最能が今日のガーモニーを築き、今も飽くことなく首相追い落としにかからせているのだろう。(p.20)
というような男である。またジョージ・レインの経営・所有する出版社は「聖書に隠された数字の暗号が未来を予言しているだの、インカ人は宇宙から来ただの、聖杯、約櫃、キリスト再臨、第三の眼、第七の封印、ヒトラーはペルーで生きていた」という「頭の弱い連中を食い物にする」本の出版社である(pp.65-66)。「理想」と良心の頽落であるが、ヴァーノンとクライヴの友情が崩壊する場面から;

(前略)
「来週掲載しようと思うんだ。君はどう思う?」
クライヴは椅子の背を傾けて頭の後ろで手を組んだ。「そうだね」と慎重に言った。「君のスタッフが正しいと思う。恐ろしい思いつきだよ」
「というと?」
「やつを破滅させることになる」
「そりゃそうさ」
「いや、つまり一個人としても」
「ああ」
気まずい沈黙があった。反対する理由がどっとばかりに浮かんできてひとつにまとまらないようだった。
ヴァーノンは空のグラスを差し出して、ワインを注がせながら言った。「どういうことだい。あいつは純然たる害毒じゃないか。君だって何度もそう言ったろ」
「いやなやつだ」とクライヴは同意した。
「十一月に政権交代を狙うらしいぜ。あんなのが首相になったらこの国は破滅だ」
「ぼくもそう思う」とクライヴは言った。
ヴァーノンは両手を広げた。「な?」
クライヴが天井のひび割れを眺めて考えをまとめているあいだ、また沈黙が流れた。ややあってクライヴは言った。「ひとつ聞きたいんだが、君は男が女の服を着ることはよくないと思ってるの?」
ヴァーノンはうめき声を上げた。態度が酔っぱらいに似てきていた。来るまえに一杯やったに違いない。「おい、クライヴ!」
クライヴは言いつのった。「君はむかし性革命を支持していたんじゃないか。ゲイのために運動したじゃないか:
「何を言い出すんだ」
「上演禁止になりそうな劇や映画を支持したじゃないか。つい去年も、金玉に釘をぶち込んで裁判にかけられた白痴どもを弁護してたろ」
ヴァーノンは顔をしかめた。「ペニスだよ」
「こういう種類の性表現を弁護したいんじゃないのか? ガーモニーがどんな罪を犯したというんだ?」
「偽善の罪だよ、クライヴ。死刑・体罰賛成論者で、家族復権主義者で、移民や弱者や外国人、マイノリティの敵じゃないか」
「筋違いだよ」クライヴは言った。
「筋違いなもんか。つまらんことを言うなよ」
「もし女装趣味がOKなら、人種差別論者がそうでもOKのはずだよ。OKでないのは人種差別論者であることだ」
ヴァーノンは憐れみを装って溜息をついた。「いいかい……」
しかしクライヴは勢いづいていた。「もし女装趣味がOKなら、家族復権主義者がそうでもOKじゃないか。もちろん人前でなしに。もし――」
「クライヴ! まあ聞けよ。君は一日じゅうスタジオで交響曲の夢を見てるんだ。いま何が大事なのか分からないんだ。いまガーモニーを泊めないで十一月に首相にならせたら、来年の選挙で連中が勝つんだぜ。また五年も! いま以上に貧困層が増えるだろうし、刑務所に入れられる人間も、ホームレスも、犯罪も、去年みたいな暴動も増えるんだ。あの男は徴兵に賛成なんだぞ。環境だって悪くなるよ、地球温暖化防止協定にサインするよりも財界を喜ばせたい男なんだから。EUからも脱退したがっている。経済破綻だよ! 君はかまわんだろうが」ここでヴァーノンは広々としたキッチンをぐるりと指さしてみせた。「ほとんどの人間にとっては……」
「気をつけろ」クライヴはうなった。「ぼくのワインを飲んでるんだぞ」そしてリシュブールに手を伸ばしてヴァーノンのグラスを満たした。「一本百五ポンドなんだから」
ヴァーノンはグラス半分をがぶりと飲んだ。「それこそぼくが言いたい点だ。君、中年になって小金がたまったから右傾してるんじゃないか?」
クライヴはあざけりにあざけりで応じた。「君、ことの真相を分かってるか? 君はジョージの手先なんだ。あいつにけしかけられてるんだ。君は利用されてるんだぜ、ヴァーノン、それが分からないとは驚きだね。やつはモリーと付き合ったガーモニーを憎んでるんだ。ぼくや君が困るものを持ってれば、それだって利用するさ」そして付け加えた。「持ってるかもな。モリーに写真を撮らせなかった? ダイバースーツか? チュチュか? 読者に知らせる義務があるね」
ヴァーノンは立ち上がって封筒をブリーフケースに戻した。「君がはげましてくれると思って来たんだ。少なくとも共感して聞いてくれると思ってた。くそ面白くもない非難を聞きに来たんじゃないや」
ヴァーノンは玄関に出た。クライヴもついていったが、謝る気はなかった。
ヴァーノンはドアを開けて振り返った。薄汚れたみじめな様子だった。「どうも分からない」と静かに言った。「これって不公平じゃないか。何のためにそんなに反対するんだ?」
返事を期待した質問ではなかったろう。が、クライヴは友人に数歩近づいて言った。「モリーのためだよ。ぼくらはガーモニーは好きじゃないが、モリーはガーモニーが好きだった。ガーモニーはモリーを信頼して、モリーはその信頼を尊重した。あの写真はふたりの秘密だよ。モリーの写真であって、ぼくにも君にも君の読者にも関係ない。モリーなら君のしていることに怒ったろう。はっきり言えば、君の行為は裏切りだ」
そしてクライヴはヴァーノンが腹癒せにドアを叩きつけるまえに向きを変えて歩み去り、晩飯を食べにひとりキッチンに行った。(pp.87-91)
『贖罪』、映画は観たけれど*8、小説は読んでいない。
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*1:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110222/1298300942 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070307/1173259708

*2:最後の方で、モリーがその写真の「版権をリンリーに渡していた」ことをジュリアン・ガーモニーに暴露している(p.201)。

*3:2人の友情が崩壊する以前に、モリーの痴呆死にショックを受けたヴァーノンは「ぼくがモリーみたいに大病をして、頭をやられて(略)ものの名前も自分が誰かも思い出せないようになった」ら、(安楽死が)「合法化されている土地」に連れていって、自分を「死なせてくれる」よう頼んでいたのだった(pp.61-62)。

*4:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060322/1142995180 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060325/1143266073 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070204/1170611496 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070305/1173063168 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070427/1177703588 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070518/1179458835 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080502/1209698659 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090323/1237790007 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090712/1247372170 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090814/1250222401 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100107/1262884553 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100511/1273555779 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100618/1276885921 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100929/1285794543 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110119/1295413610 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110128/1296230504 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110822/1314038999 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110825/1314272990 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120105/1325695215 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20120117/1326765580

*5:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090816/1250355437 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100618/1276885921 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110119/1295457854 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110226/1298693399

*6:但し米国のベビーブーマーは世代としての幅が広く、日本でいうところの「新人類」あたりまで含んでいる。

*7:勿論The Who の”My Generation”からの引用。

*8:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080221/1203567187