「美しい書物はどれも一種の外国語で書かれている」

批評と臨床 (河出文庫 ト 6-10)

批評と臨床 (河出文庫 ト 6-10)

ドゥルーズの『批評と臨床』*1にはエピグラフとしてマルセル・プルーストの『サント=ブーヴに反論する』から「美しい書物はどれも一種の外国語で書かれている」というフレーズが引用されている。プルーストはそんなこと言っていたっけと思い、保苅瑞穂編『プルースト評論選I 文学篇』(ちくま文庫)を捲ってみる。何度か「サント=ブーヴに反論する」(出口裕弘吉川一義訳)を読み返して、それらしき一節を見つける;


優れた文学書には、外国語で書かれたようなところがある。一つ一つの単語に、私たちそれぞれ、自分なりの意味を、少なくとも自分なりのイメージを担わせるわけだが、おおかたそれが見当ちがいなのだ。ただ、優れた文学書の場合は、読み手の側のどんな誤読も、すべて美しいという風になってしまう。(後略)(p.195)
これでいいの? ただ、ドゥルーズが引用によって言わんとしたところとは少しずれているような気もするのだ。今引用したプルーストの言葉からは、言葉は「意味」や「イメージ」を押しつけ・固定せんとする読者の意志を常に擦り抜けていくものだということが取り敢えず読み取れるだろう。ドゥルーズは『批評と臨床』の「序言」で、

(前略)作家は、プルーストが言うように、言語の内部に新しい言語を、いわば一つの外国語=異語を発明する。彼は、文法上あるいは統辞法上の新たな諸力を生み出すのである。彼は言語をその慣習的な轍の外へ引きずり出す。つまり、言語を錯乱させるのだ。のみならず、書くことの問題は、見ることと聴くことの問題と分かち得ないものでもある。なにしろ、言語の内部にある別の言語が創り出されるや、「非統辞法的」で「非文法的」な臨界へと近づき、あるいは自分自身の外と交感するようになるのは、言語の総体なのだから。(p.9)
と述べている。意味論という準位と統辞論という準位の違い? プルーストにせよドゥルーズにせよ、仏蘭西語原文をチェックしていないので、まあ何とも言えないのだが。
プルースト評論選〈1〉文学篇 (ちくま文庫)

プルースト評論選〈1〉文学篇 (ちくま文庫)