「地域格差」はなくなる?

承前*1

http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20110817/p1


http://d.hatena.ne.jp/Rootport/20110813/1313239682に関連したエントリー。
最後の方で、


ちなみに「地域格差」については、僕が子どもの頃に比べれば、かなり是正されていると思います。

その立役者が、まさにインターネットなのです。

Amazonでは一部の古書店でしか手に入らないようなレアものを除けば、ほとんどの好きな本を全国で簡単に入手できるようになりました。

そして、ネット上では、無料かそれに近いようなコストで、多くの優れた作品を読むことができます。

という。
「俺の知的原点のひとつでもあった駅前の本屋は1990年代初めにミスドになってしまった」と書いたのだが*2、私が育った街の商店街には子どもの頃、5軒の本屋があった。それから古本屋が1軒あったが、これは1970年代後半にはなくなっていた。あと、貸本屋が1軒あって、1974年頃まで営業していた。今残っている新刊書店は1軒だけ。あとブックオフが1軒、古本屋が1軒できた。リアル書店に限って言えば、昔よりも貧しくなっているとはいえる。東京の都心から電車で30分か40分のこの場所でこの様なのだから、ほかの地方ではもっと情況は厳しいのではないか。
インターネットが「地域格差」を均すというのはその通りだと思う。でも、amazon.co.jpで読みたい本・買いたい本を検索するというのは読みたい本・買いたい本がわかっているというのが前提である。その前提に辿り着くまでに、田舎と都会では「格差」があるんじゃないかというのが「常夏島」さんの主張*3。自分の読みたい本・買いたい本がわかるためにはどうしなければいけないのか。先ず、〈本〉というものに視覚的・触覚的に接触して、そこから選ぶ、或いはそうした目の前にある〈本〉に反発して、そこにはないような本を探すということから始まるのだろう。子どもにとって〈本〉というものに視覚的・触覚的に接触できる場所は家の蔵書、図書館、そして本屋ということになるだろう。家の蔵書はともかくとして、図書館や本屋に関していえば「地域格差」はあるのであって、インターネットがもたらす〈平等〉がその「格差」を却って隠蔽することになりうるのではないかと危惧する。「もう「田舎だから」は言い訳にならなくなってしまう」わけではないのだ。

上のエントリーで「百科事典」の話が出ていたのだが、うちにも百科事典はあったということを思い出した(今でもある)。たしかセールス・マンがやってきて、2時間以上ねばったのだった。百科事典を買ったときはまだ小学校の低学年だったので殆ど読んだ記憶はない(何よりも小学生にとっては重かった)。高学年になると、ほかにあまり本もなかったので、隅から隅まで読んだ。俺に学識といえるものがあまりなく、広くて浅いトリヴィアばかり知っているというのは、そのせい(おかげ)なのかも知れぬ。