一徹as a mad scientist?

数日前に唐突に『タイガーマスク』に言及してしまった*1。そして、同じ梶原一騎つながりで『巨人の星』についての妄想的疑問が浮かんでしまった。星一徹をマッド・サイエンティストの系譜に位置づけて考察している人はいるのだろうか。勿論『巨人の星』は当時「スポ根」と言われていたわけだし、主題歌の


思いこんだら
試練の道を
行くが 男のど根性
真っ赤に燃える 王者のしるし
巨人の星を つかむまで
血を汗 流せ
涙を拭くな
行け 行け 飛雄馬
ドンと行け
という歌詞には精神主義の匂いがぷんぷんしている。また、山奥のお城に住んで、世界征服のために日々怪しげな実験を繰り返している(何時もビーカーを泡立たせている)というマッド・サイエンティストのイメージに星一徹は全く結びつかない。しかし、星一徹は卓袱台を引っ繰り返す暴力親父であるだけではない。何よりも発明家である。「大リーグボール養成ギブス」という(今なら児童虐待として隣近所にちくられかねない)代物を発明している。
巨人の星コンプリートBOX Vol.1 [DVD]

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さて、高度成長期の精神主義については、橋本努氏が『自由に生きるとはどういうことか』*2で、(大松博文に代表される)「下からのスパルタ主義」(pp.84-93)、『あしたのジョー』/全共闘的な「燃え尽きる」こととしての「自由」(pp.94-128)として論じている*3。しかし、精神主義だけで高度成長はできないだろう。それと同時に技術指向或いはさらに極論して技術信仰*4のようなものがあった筈なのだ。因みに、橋本氏は『巨人の星』などの「スポ根」物について、「下からのスパルタ主義」という「精神を、子供たちに注入するために有効なドラマであった」と述べている(pp.93-94)。また、桜井哲夫氏(『思想としての60年代』)も『巨人の星』を「武士的エートス(勤勉力行・克己の精神)の通俗化」であるとしているが*5、そこに潜む技術信仰には注目していない。技術信仰ということだと、もう一つの鍵言葉は「魔球」ということになるだろう*6星一徹の「魔送球」にしても、星飛雄馬の「大リーグボール」にしても、「魔」という漢字に騙されていけない。「魔球」というのは精神力によって生み出されるのではなく、常に(疑似)科学的な説明というか理屈付けがなされているのだった。また、そもそも精神主義にしても精神に対するテクノロジーとして捉え返すべきか。
思想としての60年代 (ちくま学芸文庫)

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ところで、橋本氏が引用している大松博文『おれについてこい!』はやはり凄い。例えば、

君たちはカタワなのだ。ソ連と対決することは、カタワが五体満足な者たちとたたかうのと同じだ。勝つためには、どんなむりな練習をしても、このハンディキャップを埋めなければならないのだ。(Cited in p.89)
「腎臓病」を抱えて、「もうこれ以上バレーを続けると、だめになってしまいそうです」と訴える選手(pp.89-90)に対して;

だめになると思ったらだめになる。負けちゃだめだ。なんでもないと思ったら病気は治る。バレーをやり抜くことで、腎臓から病気を追い出すのだ。(Cited in p.90)
梶原一騎については、斎藤貴男梶原一騎伝』*7をマークしておく。
梶原一騎伝 (新潮文庫)

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*1:http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110707/1310010518

*2:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20091230/1262140525 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100816/1281930523 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20110226/1298700874

*3:「スパルタ」においても「完全燃焼感としての自由」は得ることができる(p.93)。

*4:万事は技術的に統御可能であるという信仰。

*5:See also http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080226/1204000470

*6:但し、「魔球」が出てくるのは『巨人の星』が最初であるわけではない。

*7:Mentioned in http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060226/1140927585 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061011/1160575458