Different taste of language

http://d.hatena.ne.jp/lionfan/20110228#1298869733


2000近くのブックマークがついている! 「教員採用試験を受ける学生の、小論文の添削」中に「しょっちゅう指摘したこと」なんだって。ただ、感じたのは、この人は俺とはかなり違った言語についての趣味をしているなということ。極言すれば〈粗雑な趣味〉といってもいい。
前半部を引用;


[1] あいまい語を使うな

「〜に繋がる」「〜に影響する」「〜に関連する」といった言葉は、すぱっと言い切れる場合がほとんどです。

「テレビの見すぎが視力の低下に繋がる」→「テレビの見すぎで視力が低下する」



[2] 「〜のである。」は無条件で削れ

無意味な言葉なのに、4文字も増えてしまいます。削ってください。

「テレビの見すぎで視力が低下するのである」→「テレビの見すぎで視力が低下する」



[3] 「〜AやBは」が、A≒Bならどちらかを削れ

並列しているのに、実際はほとんど同じ、というケースがよくあります。一方を削りましょう。

「他人に親切にしたり、人を尊重したりする態度を身につけさせたい」→「他人に親切にする態度を身につけさせたい」

削っていいか心配になったら、削ったあとの文章を1万人が読み、「あれ? Aだけ? Bが抜けてない?」と言う人が何人いるか想像してください。めったにいませんよ。

(あるいは次のように考えてください。AでないのにBであるとか、AなのにBでないケースなど、ごく稀ではないですか?)



[4] 漢字二文字の動詞は、できれば漢字一文字の動詞に直せ

難しい言葉を使うと、内容がすらっと頭に入らなくなります。

「〜指導する」→「〜導く」 「〜教育する」→「〜教える」など。

みんな、そんなの一概には言えないよ、ケース・バイ・ケースでしょということばっか。また、言葉に関するカテゴライゼーションがおかしいぜと思った。
「「〜に繋がる」「〜に影響する」「〜に関連する」といった言葉」を「あいまい語」というのか。曖昧という言葉のコノタシオンが俺とはかなり違う。世の中には、その因果関係が明確にわかるようなことと何かしら関連がある、影響があることはわけるけれど因果関係まではわからないことがある。相関関係、影響関係と因果関係を区別できないというのは粗雑な思考といっていいだろう。俺だったら、逆に「すぱっと言い切」っていいの? と突っ込むよ。勿論、断言してしまった以上、今度は証明するという責任が発生する。
たしかに「〜のである。」が連発されたりすると、読む方としてはうざい。しかし、「無意味な言葉」と言い切っていいのか。「〜のである」は潜在的な複数の対比(選択肢)の中からひとつを取り出して、それに対して特別の注目を指示するという機能がある。「〜のである」の濫用が駄目なのは、たんにうざいだけでなく、そのような機能を損なってしまうからなのだ。
「「〜AやBは」が、A≒Bならどちらかを削れ」というのは、そうだよねと一応は思う(「、」の位置がおかしい)。しかし、類義語を重ねて意味を強調するというのは修辞学上、ときとして許されることではあろう。ところで、「親切」と「尊重」というのは類義語でも何でもないよ。「親切」は行為の準位について用い、「尊重」というのは信念や態度の準位について用いる。従って、例の出し方が不適切。
「漢字二文字の動詞は、できれば漢字一文字の動詞に直せ」って、要するに動詞は漢語ではなく大和言葉を使え、ということなのだろう。これは純粋に趣味の領域に属し、どちらがいいのかを上から指定することはできない(と思う)。「難しい言葉を使うと、内容がすらっと頭に入らなくなります」という問題ではない。漢字は単体としてよりも熟語として記憶していることが多いわけで、例えば



という字をいきなり出されるよりも、


教育
教員


という熟語を見せられた方が、その意味するところは「すらっと頭に入」ってくる。また、ここでも例の出し方がアレだなとは思う。「「〜指導する」→「〜導く」」というけれど、(少なくとも)俺の感覚では、「指導する」と「導く」は相互に言い換えが可能ではない。


〜を指導する
〜へ導く
〜するよう導く


「導く」と同義なのは寧ろ〈誘導する〉だよ。また、俺は「教育する」という動詞は殆ど使わないけれど、「教育する」と「教える」がそのまま相互に言い換えが可能だとは思わない。というか、「教育する」は目的語に教育される人(集団)はとるけれど、教育の内容はとらないのではないかと思う。例えば、


高校生を教育する


には違和感はあまりないけれど、


英語を教育する


というのはちょっと変だなと思う。「教える」は目的語としてどちらもとれるが、


高校生に教える
英語を教える


というふうに、助詞〈に〉と〈を〉を使い分けなければならない(対格か与格か)。ところで、


高校生を教育する


とは言っても、


高校生に教育する


とは言わないよね。勿論、これについては俺の(主観的)趣味の域を出ておらず、ほかの人がどう思うかはわからない。また、人によっては、こういう議論は英語のeducateとteachの差異に引き摺られているのであり、sumita-mが反日の非国民であることを言語学的に証明するものだと言うかもしれない。それに対しては、


Oh, fuckingly nice speculation!


と答えるだろう。