天才に遇わず

http://anond.hatelabo.jp/20110120022852


「才能の潰れ方」というタイトルに惹かれて読んだのだが、退屈な文章だった。これに700以上のブクマがついているというのはこれ如何に?


これはちょっと自慢ですが、僕はある分野でかつて神童と謳われてた事がありまして。今は凡人ですが。へへ。

 で、僕はその過去の栄光のおかげで、特別才能のある子供達の英才教育現場に従事してきたのだけれども、そこで天才と呼ばれる彼らを見続けて、彼らが(そして思い返せば僕も)必ずと言って良いほど通過する心理的な難所に気がついたので書いておくことにします。ほんとに単純なことだけど。

 彼らは成長の過程でまず、自分の中の万能感を認め、飼い慣らさなければならない。それまでの小さなコミュニティでは自分の優位性を再認識し、その存在を確立する手助けをしていた万能感が、渡航や進学で大きなステージに出たとたんに鈍重な重荷になる。万能感の根拠が相対的なものでしかなかったことに気がつくわけですね。

 ある種の天才児達はここを乗り越えることが出来ない。万能感を適切な形に処理できないまま現在の自分とのギャップに苦しんで潰れてしまう。天才人生終了。

 そしてその万能感を乗り越えると、今度はその反動で無力感が襲ってくる。いままでなぜか自信満々だったけど俺ってゴミじゃね?って思えてきてしまう。それでうじうじ考えて自己否定の論理を組み立て始めるんだけど、実際に周りにもっと凄い天才達がいるわけだからその論理が決して破綻してない。的を射てる。そうなってしまうともうダメ。内向的・後ろ向きになることで才能の推進力が止まってしまう。

 思うに「天才性」ってのがあるとすると、それは現在の彼の状態ではなくて、天才なりの将来へ彼を進めていく推進力とか爆発力みたいなものも含めての「天才性」なわけです。上記のような状態の時に上手く制御された万能感をもう一回持ち出してきて自信を回復していけない子は、ここで天才人生が終了。

 もちろんレアケースはあるに決まってるけど、この2つの次期を上手く乗り越えた子はほぼ例外なく才能を活かして大成してる。

先ずこいつは「天才」に遭遇したことがないか、或いは遭遇したことを忘却しているのだろう。「天才」が何か生物種や鉱物種のように客観的に存在するかのように考えているようだ。そうではないだろう。天才というのは、例えば、剣の達人が敵と立ち会った瞬間にその場の空気からただ者ではないな感じ取ってしまうという仕方で、或いは例えばゴダールの映画を観てしまったりケイト・ブッシュの歌声を聴いてしまったりしたときに不意討ち的に得体の知れない衝撃が走るという仕方で感じ取られるしかないわけだ。外在的な品評の対象になるものなどは「天才」でも何でもない。
但し、「天才」という言葉を外して考えれば、この人は間違ったことを言っているわけではない。ここで書かれていることは、例えば禁欲的に受験勉強に精進したおかげで一流大学に合格してしまった三流高校出身の秀才なら誰でも経験している筈だ。でも、それを「天才」云々というのはかなり大袈裟だろう。また、学者にせよアーティストにせよデザイナーにせよ、クリエイティヴであることを義務付けられている人は、常にここで書かれているような「万能感」と「無力感」の間を綱渡りするかのように生きている筈だ。但し、これは「天才」かどうかという問題ではなく、いわば〈職業病〉、〈労働災害〉に属する問題ではあろう。