スコーピオンズは?

http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20101205/1291551065
http://www.ff.e-mansion.com/~yoshimoto/koijounotuki.htm


これを読んで先ず思ったのは、「荒城の月」ってスコーピオンズもカヴァーしていたけれど、スコーピオンズは#をつけていたのかどうかということ。
滝廉太郎作曲の「荒城の月」は山田耕筰が「中学唱歌」向けにロ短調からニ短調に変え、また「はるこうろうの はなのえん」の「え」の部分にあった#を取って、半音下げてしまったという。問題となっているのは#の有無を巡って。吉元恵子さんという方*1


たった一つの音ですが#があると無いとでは、全く違う旋律になってしまいます。
後世の人間が勝手に旋律を変えてしまっていいものでしょうか?(リズムや伴奏等を変えるのは編曲の域としても、旋律を変えることには大いに疑問があります)瀧廉太郎が可哀想に思えます。
「自分が作曲したフレーズは、それでは無い!」と草葉の陰で、嘆き怒っているのではないでしょうか?
と述べる。また、

AmahaYui*2 2010/12/06 08:41
そうそう、シャープ以外にも
音符と小節数を倍にして、
テンポを落としたんですよねー。
http://blogs.yahoo.co.jp/maskball2002/61898393.html

上のブログにもちょろっと書いてあるけど
確かに編曲版安定はするんですけど、
この曲の場合だと、私も「安定しちゃいけない」と思うんですよ・・・(^。^;;
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20101205/1291551065#c1291592470


Harnoncourt*3 2010/12/06 10:40
こんにちは。
個人的には、#の無いほうが単純に歌いやすいと思えます。山田も「唱歌として誰でも歌いやすいように」を優先したのではないかと思います。#がつくと、楽器などを習っていない一般的な子供ではまず音程が取れないと思います。私も正確に取れたことがありません(笑)。
でも、#による絶妙なゆらぎ感がいいんですよね。これが滝廉太郎の美学だと思います。山田の判断も理解はできますが、こういうことをやったら「滝廉太郎のオリジナルではこの音に#が付きますが、歌いにくいので取りました」という注釈くらい付けておくべきでしょうね。
http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20101205/1291551065#c1291599605
という意見も。
取り敢えず美的な判断は保留。現在学校教育を通じて流布しているヴァージョンは〈山田耕筰による変奏曲〉としておけばいい。ただ、吉本さんが何故山田耕筰が#を取ったのかについて、「日本的な旋律にするため」という説があると書いてあるが、何故半音下げると「日本的」になるのかはわからない。
山田耕筰といえば、矢野暢が『「酔い」の政治学 劇場国家はどこへ』という本の中で、山田耕筰の「獣的」な性生活に言及していたのだが、皮肉なことに、この本が出た数年後に著者の矢野暢が酷いセクハラ事件を引き起こし、大学を辞め、さらにはウィーンで孤独に客死したのだった*4
「酔い」の政治学 劇場国家はどこへ

「酔い」の政治学 劇場国家はどこへ

ところで、他人のメロディを勝手に変えてしまう常習犯のように世間から言われている人として、矢野顕子がいる。去年だったか、佐野元春のインタヴューに答えて、そのことについて弁明していたのが面白かった。矢野さん曰く、自分は他人のメロディを勝手に変えてしまうといわれているけれど、寧ろ日本語(関東方言)のアクセントに忠実なだけなのだ、だから関西弁を母語とする人が自分に違和感を持つのは理解できる、と。
最近世間を騒がせたオリジナル改変問題としては、森進一による「おふくろさん」科白追加問題があった*5
土井晩翠の歌詞はいい。というのも俺は〈廃墟萌え〉であるので*6