否認と抑圧の問題?

承前*1

内田樹氏の「階層化する社会について」*2について。
前のエントリーではその内容には立ち入らなかった。
まあ、「私には知らないこと、できないことはない」と思い込んでいる人間が〈下〉に固定されるというのは当然といえば当然ではある。内田氏が「学ぶ」ことについて語っているので、教育問題に引き付けて言えば、佐藤学氏によれば、所謂「習熟度別指導」においては生徒の側も教師の側も主観的満足度が高くなる。教える内容がすかすかにされているので、それだけ〈わかった!〉という実感が強くなるのだ。しかし、その満足感こそが罠であり、満足しているうちに学力の格差は固定されていく(『習熟度別指導の何が問題か』)*3

習熟度別指導の何が問題か (岩波ブックレット)

習熟度別指導の何が問題か (岩波ブックレット)

さて、内田氏は私たちの自己形成における「模倣」(ミメーシス)*4の役割について言及している。曰く、「脳科学の知見が教えるとおり、人間というのは他者の模倣を通じて固有性を形成し、他人の思考や感情を模倣することによって人間的な厚みを増してゆくものである」。ここで援用されている月本洋という方は存じ上げないのだが、これについても、その通りというしかない。「発音のしかた、表情のつくりかた、排泄のしかた、手の動かしかた、歩きかた、さらには他人のいじめかたまでふくめて、わたしたちはすべてを模倣からはじめたはずだ」という鷲田清一先生の言葉(『じぶん・この不思議な存在』、p.36)を付け加えておこうか。だとしたら、ここで問題が生じる。「模倣」というのは(上流・下流を問わず)あらゆる人間の自己形成の契機である。また、ミメーシスという機制が作動しなければ、「自分らしく生きるイデオロギー」とか「自分探しイデオロギー」とかが内面化されることも不可能である。とすれば、「下流」の人は学んだのに学んでいないと自己否認していることになる。或いは、その学んだことを他者によって否認されている。さて?
じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

じぶん・この不思議な存在 (講談社現代新書)

もうひとつ別の問題が考えられる。内田氏曰く、

「学ぶ」という行為は次のような単純なセンテンスに還元される。
「私には知らないこと、できないことがあります」
「教えてください」
「お願いします」
これだけ。
これが「学び」のマジックワードである。
これが言えない人間は永遠に学び始めることができない。
「教えてください」は助けてくださいに通じる。つまり、「学び始めることができない」人は他者の〈お助け〉を、或いは助けてくれる他者を(主観的には)必要としない人だといえる。しかし、ビートルズも歌っている;

Help, I need somebody,
Help, not just anybody,
Help, you know I need someone, help.

When I was younger, so much younger than today,
I never needed anybody's help in any way.
But now these days are gone, I'm not so self assured,
Now I find I've changed my mind and opened up the doors.
http://www.lyrics007.com/The%20Beatles%20Lyrics/Help!%20Lyrics.html

実際には「誰かが必要」なのに、Help! と叫べないこと。問題なのはこちらなのではないか。凡庸な結論ではあるけど、これは新自由主義時代におけるもうひとつのクリシェである〈自己責任〉ということに関係しているといえばいえる。