娘婿の話

JFK Miller “Count Gian Galeazzo Ciano” that’s Shanghai October 2010, pp.20-21


Gian Galeazzo Cianoは伊太利の独裁者ムッソリーニの娘婿。何故彼の話がthat’s Shanghaiに載っているのかというと、彼は1931〜32年に伊太利領事として上海に駐在していたからである。
Gian Galeazzo Ciano伯爵は羅馬大学ロー・スクールを卒業後、ファシストの新聞Nuovo Paeseの書評・劇評家を経て、外交官となり、リオ・デ・ジャネイロ、ブエノス・アイレス勤務を経て、北京の伊太利大使館に勤務する。1930年に本国に呼び戻され、駐ヴァティカン伊太利大使に就任。ムッソリーニの娘Eddaと知り合い、Eddaの積極的なアプローチによって翌年に結婚。お互いに愛人が存在することを認め合ったオープンな結婚であった。結婚直後に領事として上海に赴任。上海では蒋介石と親密な関係を築き、中国による伊太利製兵器の大量購入を実現し、また対日交渉の仲介を行う。1932年には本国に呼び戻され、1936年に33歳で外務大臣に就任。1937年に伊太利は既に独逸と日本の間で結ばれていた防共協定(Anti-Comintern Pact)に参加し、枢軸国になったため、中国との国交は断絶してしまうが、その後も中国の駐ヴァティカン大使と密かに会っていた。これは中国の租界における伊太利の利権を守るためにも必要なことであった。1930年代後半には、枢軸国側の不利を覚って、ファシスト内部の不満分子とともに、連合国側との和平を画策するようになる。ムッソリーニへの離反は連合軍のシチリア島攻撃を機にあからさまなものとなり、外務大臣の職を解かれてしまう。さらに、1943年7月には伊太利の最高権力機関であったFascist Grand Councilにてムッソリーニ解任動議に賛成した廉で逮捕され、銃殺刑を宣告される。Eddaは夫の機密事項満載の日記を差し出すことを条件に父親に対して助命を嘆願したが、ムッソリーニは動ぜず、1944年1月にヴェローナにて処刑された。なお、上海で生まれた息子のFabrizioは回想録When Grandpa Had Daddy Shotを書いているという。

さて、上海の伊太利人の運命について、榎本泰子『上海 多国籍都市の百年』*1からメモ;


日本はドイツ、イタリアと軍事同盟を結んでいたが、日本軍による支配が、上海のドイツ人、イタリア人に歓迎されたというわけでもなかった。上海の欧米人がみなそうであったように、ドイツ人やイタリア人は上海における自らの権益を第一と考え、とりわけ親中国的な外交官や企業家は、本国政府が日本との関係を強めることに反対していた。上海のドイツ人(非ユダヤ系)約三〇〇〇人のうち、ナチス党員は一割程度であったといい、大半のドイツ人はユダヤ人迫害政策などに必ずしも同調していなかった(後略)
租界の自由な生活が日本軍によって阻害された時、彼ら「枢軸国人」たちの微妙な意識は、日本側の施策に対する冷ややかな態度として表れた。当時の警察の記録では、一九四二年一二月に実施した防空演習の際、観察された「枢軸国人」の様子を、以下のように分析しているという。「表面協力的態度を装いながらも非常に消極的にして彼等は枢軸国人として些かも便宜または特権等を賦与されないことに不満を抱き演習に対する防護団の組織、訓練等においても全く傍観的態度である」(高綱博文「日本占領下における「国際都市」上海」『戦時上海』所収)。日本軍という支配者に対するこのような態度には、人種的な意識も反映されていると考えられる。
イタリアが一九四三年九月に連合軍に降伏すると、黄浦江に停泊中のイタリア船コンテ・ヴァルデ号と砲艦レパント号は、日本軍に接収されることを潔しとせず、自沈した。このことは、船舶不足に悩み、二隻に目をつけていた日本軍を激怒させた。日本軍は上海におけるイタリア権益をすべて「敵産」とし、イタリア人には褐色の腕章をつけさせて区別した。(pp.181-182)
上海 - 多国籍都市の百年 (中公新書)

上海 - 多国籍都市の百年 (中公新書)

上海における独逸(ナチス)については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090507/1241638809で言及したJFK Miller & Matthew Neckelmann “The Rise & fall of Nazi Shanghai: The unspoken history of the city and the Third Reich”( that’s Shanghai May 2009, pp.27-37)をマークしておく。そのニュアンスは榎本さんの叙述とは若干異なる。