「ハーヴァード」そして「精神分析」(メモ)

村上龍対談集 存在の耐えがたきサルサ (文春文庫)

村上龍対談集 存在の耐えがたきサルサ (文春文庫)

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20101007/1286386148にて池田香代子さんの記憶の錯綜について触れたのだけど、昔読んだ村上龍『存在の耐えがたきサルサ』を捲っていたら、そこに収録された蓮實重彦との対談「残酷な視線を獲得するために」の冒頭近く、村上龍


『KYOKO』という映画をロジャー・コーマンと一緒にやったんですけど、ロジャー・コーマンという人は、インディペンデントですから、ハリウッドじゃないので、大学というものを信じているんですよ。彼のオフィスにはスタンフォードの学生がいっぱいいますし、イギリスで映画を撮る時はハーヴァードやケンブリッジに、映画のスタッフ募集という貼り紙を出すんですよね。もちろん、そういう欧米の映画のシステムと日本は歴史が違うかもしれないんですけれど。(p.365)
と発言していた。イギリスに「ハーヴァード」はないだろう。ただ、ハーヴァードの所在地はマサチューセッツ州ケンブリッジ。ところで、この対談は初出が1997年で、対談集『存在の耐えがたきサルサ』の単行本が1999年、そして文庫版が2001年。これだけの間、村上本人も編集者も校正者も気づいていなかったということになる。
全く話が変わって、「残酷な視線を獲得するために」の中で精神分析セクシュアリティに関する蓮實重彦総長(当時)の発言が目に留まったので、メモしておく;

(前略)
これは僕自身の階級的な限界なのかも知れないけれども、やはりセックスというものに対して、まだ自分はその快楽のすべてを知ってはいないという意識があるんです。
もちろん、ある年齢まで達すれば、性器を駆使することによって得られる快楽というのもどこまでかというのも見えてしまいます。ところが、セックスというものは、何も第一次性徴に限られたものではないはずです。性器そのものを駆使しない性というものがあるはずなんですが、これが日本では非常に早く消えちゃうような気がするんです。
精神分析が成立するのは、性器を駆使した性とは違うところにセクシュアリティというのがあるということを前提にしていますね。ですから、我々が性とは意識しないところに性がいつでも露呈する、というところで精神分析が成立しているけれど、日本ではなかなか精神分析が成立しがたいというのは、性器以外のところでの性的な関係というものが、非常に稀薄なんじゃないかという気がする。であるが故に、性器としての性の問題を処理すれば物事が解決すると思われて、簡単に性が商品化されてしまう。(p.423)
さらに、

村上 それは例えば、社会的な階級であるとか、差別とかいうものも関係していますか? 階級や差別が、この国ではある種の洗練によって、変質してしまっているとか。
蓮實 それはわからないですけれども、例えば、これはもう絵に描いたような習慣ですけれど、男性と女性がどのように口を利きはじめるかという時に、女性のほうから物を落としたりしますよね。そしてそれを拾ってというのも、まさに戯画化された、男性と女性との関係のはじまりなんだけれども、日本ってそれがまったくないんじゃないかという気がする。その時に落とす物はハンカチーフかもしれないし、扇なのかもしれない、ただし、その時に、ハンカチーフなり扇なりは単なるきっかけではなくて、ある運動とともに象徴的な性の対象になり得る。そこのもう一つの水準というのが、どうも非常に稀薄で、ごく単純に女性の下着ばかりが問題になってしまう。それが今の日本の社会なのかなぁ。つまり女学生がいれば、それを、性器を駆使する快楽の対象にしないと気がすまないという……。
村上 それもやっぱり、一種の表象能力の欠如ですよね。
蓮實 僕はそう思うんですよね。(pp.423-424)