クーンの罪?

科学革命の構造

科学革命の構造

トーマス・クーンの『科学革命の構造』が画期的な本であることは間違いないし、現在(批判的にであれ)クーンのこの著作を前提にしなければ、科学史・科学論はありえないだろう。しかし、不図思いついたのだが、クーンのこの本は一面において〈罪作り〉なところがあるよな。それはこの本の鍵言葉であるparadigmに関わる。そもそもparadigmは範例と訳されていた。この訳語からもわかるように、paradigmというのは例、つまり具体的なものなのだ。学問史で言えば、アダム・スミスの『国富論』とかマルクスの『資本論』とかダーウィンの『種の起源』とか、そうクーンの『科学革命の構造』といった、画期的でそれ以後の研究や思考の枠組を支配してしまうような、具体的なテクストを指すべきものだったわけだ。クーンのこの著作以降、paradigmはパラダイムと片仮名書きされるようになった。勿論クーンはparadigmの本来の意味を踏まえているのだが、科学研究を根柢において支配する概念枠組というふうにparadigmの意味を転換した。これは画期的なことである。具体的なものから抽象的なものへ。そうなると、範例という訳語はそぐわなくなる。科学史という限定された分野で使われているうちはいい。しかし、パラダイムという言葉は越境して、非アカデミックな言説でも使われるようになる。パラダイムということで、とにかく空虚な抽象語が玩ばれることになる。それに対しては、具体的にどうよ、と突っ込む権利は誰にもある筈だろう。何しろparadigmというのは範例なのだから。しかし、片仮名のパラダイムからは範例ということを呼び出しにくい。具体性の準位に引き摺り下ろすことがしにくい。やっぱり、これは罪なことだ。