「買弁」(メモ)

承前*1

新華僑 老華僑―変容する日本の中国人社会 (文春新書)

新華僑 老華僑―変容する日本の中国人社会 (文春新書)

譚〓*2美「華僑三都物語」(in 譚〓美、劉傑『新華僑 老華僑 変容する日本の中国人社会』)から。


「買弁(comprador)」という言葉はよいイメージを有していない。帝国主義の手先、売国奴というイメージがつきまとう。
しかし、「神戸華僑歴史博物館」の藍璞館長は、「少し誇らしげに」(p.92)「私の曾祖父はComprador(コンプラドール)でした」という(p.93)。曾祖父はHSBC*3神戸支店の「コンプラドール」だった。藍氏曰く、


コンプラドールは手形割引の専門家なのです。コミッション・ワークですね。窓口業務をまかされ、ミスがあれば自分の責任で損金を弁償します。コンプラドールは中国語では音訳で「管夫」と呼ばれていましたが、日本ではその中国語から訛って「カンポさん」とか「カンプさん」と呼ばれていました(p.94)
譚さんが藍璞氏の「ホンシャン、『カンプ』のことなど」(『神戸華僑歴史博物館通信』No.2、2003年12月)という文章から引くところによれば、一般企業の「買弁たちは彼らの所属企業が華僑や日本人業者と取引を行う際に、間に立って手数料を得ると共に、手形の不渡りその他取引上のトラブルが生じた場合には、所属企業に損害を賠償することになっていた」(p.95に引用)。他方、「銀行買弁」は、

彼らの収入は銀行が支給する俸給(定額)と為替手形の保証などに対する保証手数料から成り立っていたが、買弁が関わる取引保証額は制限されており、買弁雇用契約締結時に損害賠償に備えて銀行側に担保を提出しなくてはならなかった。買弁を通しての1回の取引額が担保総額を大幅に上回ることもあり、損失が生じた場合、買弁は破産の危機に瀕することになるので、リスクの大きい仕事であった。また、現金取り扱いに関しては買弁が全責任を負うことになっていたため、香港上海銀行神戸支店の場合、金庫室の扉の鍵束は買弁とイギリス人支配人が分割保管し、両者が同時に立ち会わなければ、開錠・施錠できない仕組みになっていた(pp.95-96)
買弁とはたんなるサラリーマンではなく、「独立した銀行家」であり「現場責任者」であった(p.96)。
コンプラドール」の使用人をShroffという。藍氏の父親(1899年生まれ)はHSBCでShroffをしていた(p.97)。

「シュロッフ」とは、語源はアラビア語のsaroff(銀行家)だとされ、広東時代には買弁の使用人を指していたが、とくに受払い銀貨の真贋を鑑定する専門家のことを中国人は「看銀先生」と呼び、イギリス人はshroffと称していたことに由来するのだという。
再び、藍氏の通信文を引用しよう。
香港上海銀行神戸支店では、1930年代に12名前後いた買弁使用人全員をシュロッフと呼んでいたが、彼らは通貨鑑定の専門家ではなく、珠算に堪能な者は’checking shroff’として計算のチェックを担当し、英会話が巧みな者は’counter shroff’として欧米人客の応対や、欧米人客専門の出納業務に携わっていた……買弁に雇用されたシュロッフに対し、銀行に直接雇用され、輸出入関係業務に携わる華僑のデスクワーカーは「写字楼(事務所[の者]と呼ばれていた)(同前)(pp.97-98)
ところで、1941年の太平洋戦争開戦とともに香港上海銀行は軍に接収され、藍氏の父親は職を失った。さらに空襲で家を焼かれ、資産を失った(p.100)。

失意の底にあった藍氏の父も、一九五三年、「興安丸」で中国に帰国した。神戸一中の三年生に在学中だった藍氏は日本に残った。
(略)
日本に残った藍氏は父に何度も手紙を出したが、返事はこなかった。
一九七六年、文化大革命がようやく収束し、中国が「鉄のカーテン」を押し開いて鎖国状態を解いたとき、藍氏は真っ先に父を探してあちこちに連絡をとり、長沙で亡くなったことを知った。矢も楯もたまらず、はるばるその地を訪ねていった。
「父は一九六一年、湖南省長沙の病院で亡くなっていました。肺ガンだったようですが、詳細はわかりません。生前は中国の銀行で会計業務をしていたそうです。私が日本から書き送った手紙はみな届いていて、すべて大切にしまってありました」(p.101)