パンチ、平凡ではなく

速水健朗「長髪時代の終わりとパンチパーマの起源」http://www.hayamiz.jp/2010/05/punchiperma.html


グループサウンズ吉田拓郎らフォーク勢が若者のアイドルとして台頭し、ヒッピー族、フーテン族が跋扈した70年前後」に「理容業界では若者の理髪店離れが問題になった」。たしかにそういうことが云々されていた。そこで、「全国理容環境衛生同業組合連合会(全理連)」では「長髪」に対抗して、「ファッション性の高いショートヘアスタイルの開発に乗り出した」。それが清水健太郎をモデルにした所謂「健太郎カット」であると。近所の床屋にも清水健太郎のポスターが貼ってあったなと懐かしさも感じたのだが、それにしても「開発」に時間がかかりすぎ。「70年前後」と清水健太郎がデビューした1977年との時間差ってどうよ。
床屋が危機感を抱いた「長髪」の跋扈だけれど、実際どうだったのか。「長髪」は流行っていたけれど、当時多くの中学・高校は頭髪に関する厳重な弾圧体制下にあった。大学に入れば髪を伸ばせるぞということで*1、受験勉強に励んでいた少年も少なくなかった。つまり、文部省と日教組が学校を掌握しているかぎり、中学生・高校生という市場は取り敢えずは安泰だったのだ。それから、キャロルがリーゼントでブレイクして以来(See 坪内祐三『一九七二』、p.322ff.)、ツッパリ系というかヤンキー系の男の子は長髪よりもリーゼントを好んだ*2。だから、1970年代半ば頃だと、髪型に関しては、


文化系男子−長髪
ツッパリ(ヤンキー)系−リーゼント


という図式が一応成り立つのではないか。これは、1974年の京都を舞台にした田口トモロヲ監督の『色即ぜねれいしょん』でも確認できる。何が言いたいのかといえば、当時の若い衆のうち、少なくともツッパリ(ヤンキー)系は床屋の〈敵〉ではなかった。清水健太郎はツッパリ(ヤンキー)系に属していたわけだが。実は「長髪」は「全理連」が一生懸命努力しなくとも、1970年代後半には急速に衰退していく。青年文化或いは音楽文化との関係で言えば、短髪を旨とするパンクとテクノの影響だと一応言えるだろう。清水健太郎がデビューした前年にはパンクが日本にも本格的に紹介されているし、その翌年にはYMOが結成されている。そういうこともあって、1980年代に入ると、「長髪」に拘るのはヘヴィメタ野郎くらいしかいなくなってしまったのだ。そして、長髪がロン毛として復権するには10年くらい俟たなければならなかった。

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俺が思うに、床屋の危機というのはその頃から床屋ではなく美容院で髪を切る男性が増えたということではないか。俺も大学に入ってからは美容院で切るようになった。
さて、「健太郎カット」が「パンチパーマ」(当初は速見氏がいうように「ニグロパーマ」と呼ばれていたような気がする)の起源かという問題。俺も「健太郎カット」は「パンチパーマ」ではないと思う。その前に、「アイパー」と「パーマ」の違いだけれど、これは物理と化学の違い。たしかに、後に「パンチパーマ」と呼ばれる髪型は1980年代初めにはけっこう広まっていた。当時、どうして鉄腕アトムウルトラマン奈良の大仏は校則違反なのか。答え:鉄腕アトムは前髪が長過ぎ、ウルトラマンは剃り込みを入れている、奈良の大仏は「ニグロパーマ」というジョークがあったのだから。
「パンチパーマ」はスポーツ選手のものだったという印象がある。具志堅用高の髪型が天然なのか人工なのかはわからないのだが。プロ野球選手にけっこう「パンチパーマ」の人がいたような記憶がある。しかし、1980年代半ば頃になると、何時の間にか「パンチパーマ」=やの字という連合が出来上がっていた。1989年にプロ入りしたパンチ佐藤が何処の組の者だ? と絡まれて熊谷組だ! と答えたといわれているわけだから。


そういえば、1990年代中頃に足利工業大学の前をタクシーで通り過ぎたら、運転手にお客さん、清水健太郎の母校だよと言われた。

*1:勿論、就活に入ったら切らなければならないが。

*2:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080620/1213951541