「ら抜き」など

俺も「ら抜き言葉」は嫌いだ。だけど、http://skeptics.geo.jp/diary/201007060315.htmlで言われていることどもはかなりおかしい。


悪法も法であるように、文法は文法。
文法的に違えば、文法のテストなら×がつく。
だから、ら抜き言葉は間違い。
ただ、それだけの話だ。
学校生活が社会生活の全てではないように、「文法のテスト」が言語生活の全てではない。また、ここでのレトリックは「法」という漢字に惑わされているという前提でしか、レトリックとして成立しない。英語で、lawとgrammarで考えた場合、このようなレトリックがストレートに成立することはないだろう。

着物の着方、テーブルマナー、どんなことにも個人的に
おかしいな、不自然だなと感じる場合はある。
合理的な進歩とは無縁の韜晦趣味な世界なんて
この世の中にみちている。

いちいち個々の価値判断を
言い出していたら、きりがない。

法律や文法は、ともに同じ社会に生きる私たちが共有する
価値の大系だ。
いい悪いではない。
決まったことが「正しいこと」なのだ。

「いちいち個々の価値判断を/言い出していたら、きりがない」といいながら、直ぐに「法律や文法は、ともに同じ社会に生きる私たちが共有する/価値の大系だ」というのはちょっと矛盾していないか。「着物の着方」や「テーブルマナー」といった慣習(practice)と「法律」とを一括りにするというのは、学知以前に日常感覚の準位でちょっと変だなと思う。「法律」に限定すれば、「決まったことが「正しいこと」なのだ」というのは正しい。しかし、慣習(practice)というのはそもそも何時・何処で「決まった」のか、誰が決めたのかわからない。「文法」もそういうものだ。日本語文法に関して、責任者出てこい! と言っても責任者の出しようがない。しかし、「法律」の場合、直ぐにでも責任者を引き摺り出すことは(理論的には)可能である。法案を起草した官僚、可決した国会議員、署名した天皇。「着物の着方、テーブルマナー、どんなことにも個人的に/おかしいな、不自然だなと感じる場合はある」というけど、慣習、服の着方、ものの食べ方は日々の相互行為の中で、妥当なもの、自然(natural)なものとして、滞りなく通用してしまうからこそ、慣習は維持されつづける。また個人の準位では、慣習に沿って振る舞い続けることによって、慣習に沿った身体の構えがセットされ、つまり癖(habit)になることによって、自然さは強化される。だから、慣習に関して、「おかしいな、不自然だな」と感じてしまったら、その慣習は慣習としては危機にあるといっていい。「おかしいな、不自然だな」と感じる奴が或る閾値を超えたら、その慣習は廃れてしまうだろう。言葉の言い方としての「文法」は慣習に属するものであって、文法が文法として維持されているのは、日々それによって(例えば)日本語によるコミュニケーションが滞りなく行われ続けている事実によるものだ。さて、「ら抜き言葉」は俺やこの人のように「おかしいな、不自然だな」と感じる奴もいれば、自然だと感じる奴もいる。
こうした慣習としての文法は生きられた文法と言ってもよく、一次的構成物(first-hand construct)に属する。それに対して、言説としての文法はそうした生きられた文法から或る特定の目的のために抽出された(exploited)二次的構成物(second-hand construct)である。その中でも、生きられた文法をなぞろうとする記述文法に対して、規範文法或いは学校文法というのは、公教育という制度的・強制的仕掛けを通して言語生活或いは生きられた文法を超越的・垂直的に規制しようという目的で構築された文法であるといえる。この2つの準位を混同すること、或いは二次的構成物を一方的に真であるとして一次的構成物を貶下することがそもそもの誤りなのだが、その誤りには或る種の倫理的な問題が潜んでいるのではないかと感じた。
さて、

もっとひどい根拠として、世間に広く定着したらそれが正解、
なんていう意見もある。
その理論だと、「既出」の読みが「ガイシュツ」で定着したら、
そうなってしまうということになるが(笑)
Yes. So it goes. この人は消耗という漢字をどう読むのかね。また、洗滌は? まさか、ショウモウとかセンジョウって読まないよね? これらの漢字はショウコウ、センデキと読むのが正しい。しかし、何時の間にかショウモウ、センジョウと読まれるようになって、多分漢字テストでショウモウ、センジョウと答えてもペケにはならないだろう。或いは、あたらしいなんて言葉は使わないよね。そもそも新という漢字はアラタと訓じていたわけだが*1、江戸時代にラとタがひっくり返ったアタラというのが流行って、それが何時の間にか定着してしまった。この方には、是非とも新という漢字は正しくアラタと読んで、アタラという誤った読み方をしている奴を見つけたら厳しく叱りつけていただきたい。それから、躓く*2。俺はツマヅクが正しいと思うが、現在制度的に正しいとされている書き方はツマズクなのだ。この人の場合、ツマヅクなのかツマズクなのか。
要するに、この人の場合、四の五の言ってねぇでとっとと文部科学省服従しやがれ! ということなのか。多分、問題はそれだけではないだろう。上で「その誤りには或る種の倫理的な問題が潜んでいるのではないかと感じた」と書いたのだが、それについてちょっと臆測を重ねよう。「そういえば、某疑似科学批判サークルの情報工学の先生も/シンポジウムで、「ら抜き言葉」を使っていて聞き苦しかったな」という。つまり、この人にとっては、「ら抜き言葉」というのはそもそも美意識の問題であるわけだ。美意識の問題、つまり美しい/醜い、いけてる/ださいということを軸にして論ずべき問題を、正/誤の問題に擦り替えているのだ。そのすり替えが何故起こっているかというと、自己責任的に自らの価値判断をすべきなのに、そこから逃亡して外部的な権威に縋ることによってなのだ。


ところで、「ら抜き言葉」だけれど、個人的な感覚では、肯定形よりも否定形の方が違和感が小さい。見れるに対する違和感が50だとしたら見れないに対しては15くらい。それが何故なのかはわからない。

*1:ニヒという訓もある。新潟とか新嘗とか。

*2:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090301/1235918301 also http://d.hatena.ne.jp/nitchimo/20090228/1235751740