写真と「忘却」(マルグリット・デュラス)

最近〈写真〉について言及した*1。そこで、マルグリット・デュラス「写真」(田中倫郎訳 in 『愛と死、そして生活』河出書房新社、1987、pp.160-163)から少し抜き書き;


あなたの曾祖母さんの写真というのはないわよ。世界じゅうどこを探してもそんなのものはない。そう考えるとすぐに、写真がないということが本質的欠如に、問題にさえなってくる。写真なしでどうやって暮らしていたのだろうか? 死後には、顔といい体といい、なにひとつ残っているものがない。微笑についてのなん資料もない。もし当時の人たちに、写真のできる時代がくると言ったら、動転してしまい、恐れおののいたことでしょうよ。わたしは、一般に思われてきたこと、今でも思われていることとは逆に、写真は忘却を助長するものだと思う。現代の社会ではむしろその機能を果たしている。死者か小さな子供の、手の届くところにある、固定された二次元の顔はつねに、頭のなかにある無数の、自由に処分できるイメージのうちのひとつでしかない。そしてその無数のイメージもフィルムに写しだせば、かならず同じものになってしまう。それが死を裏づける。十九世紀前半にできたばかりのころ、写真はなんの役にたっていたのか、孤独のさなかにある個人にとってどういう意味をもっていたのか、写真は死者と再会するためのものか、それとも自分を見るためのものなのかがわたしにはわからない。自分を見るという点はたしかね。自分自身の写真を前にすると、当惑感か感嘆の念のどちらかをおぼえるし、かならず驚いてしまう。自分はつねに他人よりも非現実性を帯びている。生活の場で一番見ないのが自分の姿よ、鏡のまやかしの視野におさまっている姿をも含めて。記憶にとどめたいと思っている自分の合成的イメージ、写真のためにポーズをとる時の、あとに残そうとするこわばった顔の精一杯のイメージにくらべれば鏡の視野はまやかしよ。(pp.161-163)
因みに、デュラスは1914年生まれ。
愛と死、そして生活

愛と死、そして生活

デュラスについては、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070422/1177265280 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070427/1177654470 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081211/1228940013 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081218/1229612110 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081224/1230115391 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20100303/1267607839も参照のこと。