共同体主義についてメモなど

http://www.m-kiuchi.com/2010/03/13/hanaflowerblume/#comment-36714(Cited in http://d.hatena.ne.jp/kojitaken/20100328/1269752532



109.

ゲスト 2010/03/14 17:21:58

学歴・収入と政治・経済観の相関性

1、リバタリアン 自由・私的財産権  職業:外資系、医師・会計士など専門職  主要メディア:日経  アイデンティティー:個人

2.コンサバティブ グローバリズム  職業:経営者、商工会・建設業など自営業者  主要メディア:読売  アイデンティティー:国民

3.リベラル 人権・福祉  職業:教師、公務員、上場企業正社員  主要メディア:朝日・毎日  アイデンティティー:市民

4.コミュニタリアン 伝統・共同体  職業:フリーター、ニートプロ奴隷  主要メディア:文春・産経  アイデンティティー:日本人

あの城内実blogのコメント欄からなのだが、「ゲスト」氏がどういう政治的スタンスを持っているのかは知らず、政治的スタンスを「リバタリアン」、「コンサバティブ」、「リベラル」、「コミュニタリアン」に分けるのはまあいいとして、でも政治哲学的には杜撰だと言わざるを得ない。特に、「コミュニタリアン」を巡っては。ここにおいては、「コミュニタリアン」はウヨとか酷使様とか「真正保守」とかと同一視されている。勿論、「コミュニタリアン」=右という〈左〉側からの批判があることは事実ではある。というか、上の「ゲスト」氏は(その政治的スタンスはさて措き)コミュニタリアニズムへのそうした〈左〉側からの批判を自明なこととして内面化しているということは言えるだろう。コミュニタリアニズムの解説書である菊池理夫『日本を甦らせる政治思想』は、そうした〈左〉側からの批判に対するフラストレーションも多く含んでいるのだが、これを読むと、コミュニタリアニズムって真ん中よりも少し右に傾いているよねと思うのは普通だと思う。しかし、それはあくまでも菊池ヴァージョンのコミュニタリアニズムであって、コミュニタリアニズム一般がそうだというわけではない。菊池氏も「中道左派」を自称してはいる(p.213)。1990年代に米国でコミュニタリアニズムが活性化したのは、(共和党的な)市場原理主義や排外的愛国主義に抗して、当時のクリントン=ゴア政権を哲学的にバックアップしていこうという意図があったとされる。もっと大きな思想史的文脈においてはどうなのかというと、藤原保信『自由主義の再検討』の「終章」は「コミュニタリアニズムに向けて」と題されている。そこから、

(前略)一九八〇年代の英米圏における政治哲学上の最大の論争は、自由主義者ないしリバータリアンズとコミュニタリアンズの間、あるいは前者にたいする後者の批判のうちにあった。もっともこのばあいサンデル、マッキンタイヤー、テイラー、ウォルツァーというコミュニタリアンたちも、自由主義そのものを否定するわけではない。ただ、ロールズ、ドゥオーキン、ノズィック的な権利論をもってしては、自由主義のかかえる根本的な問題を解決することはできないとして、それに新たな哲学的基礎づけを求め、軌道修正をしようとするのである。(略)
さて、ホッブス、ロックから現代のロールズらにいたるまで、近現代の自由主義の哲学は、おしなべて個人は社会関係から離れて、それ自身として自分自身の所有者であり、自分自身の意志にしたがって善を選択し生きていくものとした。それゆえに個人は他者関係や相互の承認とは無関係に――社会になんら負うことなく――権利をもつべきものとした。それはあまりにも個人主義的であり、時には利己主義的ですらあった。かくしてサンデル、テイラー、マッキンタイヤーらは、近代自由主義のとらえたそのような自我を「負荷なき自我」「遊離せる自我」とよび、自我をふたたび社会的関係のうちに埋め込み、状況化して理解しようとする。(後略)(pp.187-188)
という部分を引用しておこう。
日本を甦らせる政治思想~現代コミュニタリアニズム入門 (講談社現代新書)

日本を甦らせる政治思想~現代コミュニタリアニズム入門 (講談社現代新書)

自由主義の再検討 (岩波新書)

自由主義の再検討 (岩波新書)

ところで、「ゲスト」氏の分類では、「経営者、商工会・建設業など自営業者」を担い手とする「コンサバティブ」が「グローバリズム」に結びつけられている。これは違うだろうと思う。この人たちは(良くも悪くも)そのビジネスを国内市場に限定していた(いる)人たちであって、直接投資やサーヴィス貿易の自由化を伴う「グローバリズム」はこれまで自らが享受してきた既得権を脅かす〈悪〉として映る筈。だから、立場としてこの人たちは排外主義との親和性が高くなり、現代日本の右傾化にそれなりの役割を果たしているんじゃないかと思うのだが、これについては実証的分析を参照しているわけでもないので、これ以上は言えない。逆に、「グローバリズム」に適応して、国際的にビジネスを展開しているような人や企業(「ゲスト」氏の分類では「リバタリアン」が当て嵌まるか)にとっては、国内の排外主義的な風潮は、はっきり言って〈ビジネスの邪魔〉でしかないだろう。
コミュニタリアニズムについては、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060216/1140096638 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070301/1172726884 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061101/1162378555 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20070226/1172457557 http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081110/1226300198とかも参照のこと。
さて、「自称「真正保守」の酷使さまたちは、口を開けば、否、文章を書けばすぐに「日本人」という言葉を用いる」とのこと*1。普通に考えれば、「日本人」にとって「日本人」であることというのは(現象学的な意味で)自然な事柄に属すわけで、それを態々言挙げして、「純正日本人」などと名乗らなければいけないというのは尋常なことではないと言えるだろう。これは(「ゲスト」氏がいうような意味での)経済資本に関わるというよりも、文化資本、社会資本に関係しているといえるだろう。「日本人」が「日本人」であることを日常的に確認するのは、日常的な〈衣食住〉を通して、〈伝統〉というコミュニティに帰属することを確認するということを通してであろう。〈伝統〉というコミュニティに帰属することを確認するが適切にできない場合、自らがそのようなコミュニティから疎外されていると感じる場合はどうなるのか。そうなると、自らが「日本人」であることを証明するのは(そんなものがあったとして)自らの体内にある「日本人」の遺伝子だけだということになる。その人たちにとっては、遺伝子こそ、教養の有無とか貧富の格差、さらには時代の推移を超えた不変性や客観性を持つということになる。「純正日本人」というのは「コミュニタリアン」どころか、コミュニティから切断された存在だということになる。

ただ、こういう人たちが用いる「純正」だとか「浄化」などという言葉には注意と警戒が必要だ。私は反射的に「民族浄化」という名の他民族抹殺を連想する。そして、城内実も「浄化」という言葉を用いるのが好きな政治家で、自らが過去に批判していたテレビ番組に出演する口実として、「私自身がどんどんテレビに出演して国民のみなさん(筆者注:「日本人のみなさん」じゃないのか?)にテレビ番組の浄化やいろいろなことを訴えていきたい」*2などと書いている。

私など、城内実のような政治家が書く文章に「浄化」という言葉が出てくるだけで、背筋に冷たいものが走るのを感じる。

ここで「浄化」と訳されているcleansingは勿論ethnic cleansingを連想させるが、このcleansingという言葉の無気味さは関係する語にcleanser(クレンザー)というのがあり、お掃除を連想させてしまうところにあるといえるだろう。cleansingよりもpurification(純化)が用いられることの方が多いと思うが、純化或いは浄化というのは所謂原理主義と呼ばれる運動の本質を構成するもののひとつである。また、「純正日本人」による「浄化」活動。その帰結は「純化」すればする程、「日本人」はいなくなり、「自宅にいながら寛げない」状態をもたらすだけだろう*3。上で言及した伝統というコミュニティからの切断もこれに帰因できるは言える。