負荷など

承前*1

少し前の『朝日』の記事;


石原都知事「銅メダルで狂喜する、こんな馬鹿な国ない」

2010年2月26日7時30分


 「銅(メダル)を取って狂喜する、こんな馬鹿な国はないよ」。東京都の石原慎太郎知事は25日、バンクーバー五輪の日本選手の活躍に対する国内の反応について、報道陣にこう述べた。

 同日あった東京マラソン(28日開催)の関連式典のあいさつでも同五輪に触れ、「国家という重いものを背負わない人間が速く走れるわけがない、高く跳べるわけない。いい成績を出せるわけがない」と話した。
http://www.asahi.com/national/update/0226/TKY201002250536.html

負荷の話。身体に負荷をかけるというのはスポーツのトレーニングでは一般的なことなのだろう。マラソン選手がわざわざ空気の薄い高山地帯に行ってトレーニングをするとか。また、どの種目でもウェイト・トレーニングが導入されている。こうした負荷と「国家という重いもの」とはどちらが効果的なのかわからない。ところで、梅若猶彦『能楽への招待』*2に曰く、

現代において、スポーツなどの苛酷な外的負荷に対する認識は、別の方向にも進んだといっていいでしょう。それは肉体にホルモン剤を投与するという、まったく別の内部の負荷を考えついた点です。負荷信仰も身体とのかかわりにおいて、もう後もどりできないところまできています。(pp.116-117)
なお、禅の老師だったら、石原慎太郎とは全く別のことをいうのではないか。気合いなんか入れるな、便所にでも行くつもりで試合に臨め、と(cf. p.166)。平常心ということで。但し、便所に行けば別の意味で気合いを入れなければいけないのだが。
能楽への招待 (岩波新書)

能楽への招待 (岩波新書)

さて、石原慎太郎円谷幸吉とは略同時代人である筈。私は沢木耕太郎『敗れざる者たち』を通じて知っているに過ぎないけれど。『能楽への招待』を久しぶりに捲ったら、これは超面白い。特に4章「表現体としての身体」における「型」の批判的考察。
敗れざる者たち (文春文庫)

敗れざる者たち (文春文庫)