ホモ・ソーシャルの果てに?

さくらな人たち [DVD]

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さくらな人たち』。役者オダギリジョーが小田切譲として監督した中篇。監督だけでなく、脚本、撮影、編輯、音楽も小田切による。映像に関しては、特に伏線の張り方など、愉しめるところが多々ある。しかし、そのストーリー、その結末に寄り添っていくのはちょっと難しかった。〈幻の桜〉を求めて、剛史(河本準一)とタクシー運転手(河原さぶ)がパンチ・パーマのボクサー、山田浩を巻き込みつつ、群馬県を疾走する。年齢も全然違う男たちが偶然に出会って旅をする。ただ、その結末では、3人は(矢沢永吉の曲に合わせて)全裸で踊り戯れる。その結果、劇場で一般公開された映画としては、男性局部の露出時間がいちばん長い映画となった。この映画では、女性は(主要な登場人物としては)排除されているのだが、これって、男たちの間で相互の距離が消失し、言語によるコミュニケーションも不用になる〈究極の裸のつきあい〉、ホモ・ソーシャルの極なのでは? やはり、部活的なノリの延長としての〈究極の裸のつきあい〉には入り込めない*1。但し、小田切譲による音楽は破壊的で、よかった。

エリック・ロメールの1986年の作品『レネットとミラベルの四つの冒険』。こちらの方は、レネットとミラベルという生まれ育ちも性格も全く異なる2人の女性の親密な関係を描いた、4つの短篇からなる連作映画。『さくらな人たち』と比べると、映画における言語的コミュニケーションの役割が違うといえるだろう。『さくらな人たち』では言語的コミュニケーションは3人の間の距離を無化して妙な一体感を醸し出すために用いられているが、『レネットとミラベルの四つの冒険』では言語的コミュニケーションは2人の間の差異を際立たせ、2人の間の距離をこれ以上近づけないために(同時に、これ以上遠ざけないために)用いられている。決して、他者を(或いは男を)排除した2人の〈究極の裸のつきあい〉といった世界は目指されない。
無知を告白すると、今までロメールのこの作品を知らなかったのだが、『友だちの恋人』撮影延長の副産物だったのか*2ロメールといえば、より最近の『グレースと公爵』に言及しておく。技術的な側面では油絵と実写との合成が話題になった筈だが、仏蘭西革命を背景にスコットランド人女性、グレース・エリオットとオルレアン公フィリップとの関係を描く。ふたりは元愛人同士。また彼女は王党派で、彼は革命派。男女間の恋愛関係・性愛関係を離れた友情の可能性、政治的スタンスを異にした者同士の、一致なき対話の継続の可能性が描かれているといっていい。後者は公共性の端緒と重なる。勿論、映画において(そして歴史的現実において)、その端緒は革命によって誕生した〈大規模なホモ・ソーシャル〉としてのナショナリズムや民主主義によって圧殺されてしまうのだが。
グレースと公爵 [DVD]

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*1:某女性曰く、オダギリジョーの裸は見たかったけれど、ああいう醜男たちの裸は見たくなかった。

*2:この映画については例えばhttp://blog.livedoor.jp/hatteria/archives/50731893.htmlとか。