加点主義ではなく

http://d.hatena.ne.jp/kmiura/20060924#p1 *1



日本国内で日本人であること、には矛盾がある。だれもが日本人であるならば、それはとりたてて主張すべきことではないのだ。すなわち、あたりまえのことなのである。したがって、一人一人が「日本人である」ことを日本人に囲まれた状況で確認するには、いわば「日本人度」のような基準が必要になる。日本人同士の間でいかに自分があるいは他人が日本人であるか、を評価しあう必要が生じるからである。点数制にするとすれば例えば10段階評価。「空気が読める」でプラス0.5。「国旗に最敬礼し、ことあるごとに門前に日の丸を掲げる」でプラス1。「君が代を公衆の面前で堂々と歌うことができる」で、プラス1。こうしてそれぞれの日本人には、点数が決定される。殿堂入りの特別扱いは最近の国会議員も主張しているように「国のために血を流し命を捨てることができる」人。こりゃもう、10点じゃ足りない真性日本人ですね、ということになる。人々は互いの点数をくらべっこして、8点の人間は5点の人間に向かって「反日」と呼び捨てにし、5点の人間は0点の人間に向かって「非国民」と罵倒する。殿堂入りは、ホントに殿堂入りしてヤスクニ神社に奉られることになり、国を挙げて日本精神の本尊としてあがめることになる。そんな日本人内部での差異化装置がないと、日本で「日本人」であることというのはとても難しいことになるのである。
所謂国士様の策略というのは、ここに書かれているような加点主義ではないだろう。通俗的な日本人論なんかでは、日本的組織は減点主義だと言われることがある。成果を挙げるよりも失敗を避けること。その意味では、国士様というのは思い切り〈日本人〉であるといえる。「日本人度」の大きさを競うよりも〈反日尺度〉の小ささを競い合うこと。だからこそ、「日本というネイションは内部に「反日勢力」がうようよするおぞましい〈ホラー・ハウス〉と化してしま」う*2。また、そうであるが故に、国士様は反「中華思想*3である。