「ヤンキー」(メモ)

承前*1

速水健朗「「ヤンキー論」に必ずつきまとうナンシーの影を追っ払え!」
http://www.cyzo.com/2009/06/post_2173.html
http://www.cyzo.com/2009/06/post_2189.html

先ず「ヤンキー」言説隆盛の背景;


オタク文化が必要以上に持ち上げられていた一方で、見過ごされてきたのは国内で圧倒的な支持を受けながら、ドメスティック市場でしか通用しないものとして軽視されてきたコンテンツである。

 実際、国内のコンテンツ市場を見てみると、ヒットしているドラマ、映画、小説、音楽は、明らかにヤンキー層をターゲットにした作品である。こうした状況を見るとヤンキーコンテンツがマスであり、オタクコンテンツはそのオルタナティブでしかないというのがよくわかる。

しかし、肝心の「ヤンキー」の定義自体が曖昧なまま;

ナンシー関は、ヤンキー的なものが消えつつあった90年代に、ヤンキー的な美意識が日本人のセンスに染みついていることを看破した。日本の地方から暴走族が姿を消し、ショッピングセンターの登場で、田舎と都会の若者のファッションに大きな差がなくなったのが90年代。一見、ヤンキーはいなくなったように思えたが、工藤静香やTHE虎舞竜に人気が集まり、YOSHIKIが神格化される当時の消費傾向から、日本人が普遍的に愛するヤンキー性を見いだしてきたのがナンシー関だ。

 ナンシー亡き後の世界においても、着実にEXILEや「小悪魔ageha」などが、ヤンキーの伝統を継ぐ者たちから絶大な支持を受け、ナンシーの「ヤンキー=日本の心」説はさらに強化され続けている。

 とはいえ、ナンシー自身は、自らの用いる「ヤンキー」の語の定義をまったくしていなかった。せいぜい「(横浜)銀蝿的なもの」という説明があるくらいなのだ。ナンシー関は漠然と日本人の心性に隠れるバッドテイストなものをヤンキーとしていたにすぎない。つまり消費における趣味趣向の問題として「ヤンキー」と呼んでいたのであって、それが社会階層に紐付いているのか、文化資本的なものなのかなど、一切具体的には言及しない(彼女はコラムニストであり、社会学者ではないので問題ではないのだが)。

ほかに、「ヤンキー」言説の類型としては、「ヤンキー絶滅論者」*2、「ヤンキーはアメリカの影派」、さらに(オタクから見た)「ヤンキー」=〈リア充〉指向という言説があるという。
私としては、今のところ、「ヤンキー絶滅論」、いやそれよりもちょっと弱い衰退論だな。「ヤンキー」的なイメージや文化商品は「ヤンキー」自身がいなくても存立するし、「ヤンキー」以外の人々によっても消費されうる。「ヤンキー」的なイメージが充満しているとしても、「ヤンキー」を社会的に統合する制度的仕掛けは変容している。それは地域社会における若者組的な仕掛けの衰退であり、それを支えた自営業の衰退とそれに伴う地域社会の変容である。そもそも「ヤンキー」にとって低学歴とか前科といったものがそれほどの汚点にならなかったのは、「ヤンキー」が基本的に自営業の若旦那であり、あまり就職の心配をしなくてもよかったからだ。若い頃は悪さをしても、そのうち歳を重ねれば、商売を継いで旦那となり、旦那衆として地域社会でもそれなりの役割を果たすようになる。これは上層「ヤンキー」といえるかも知れないが、そうではない下層「ヤンキー」にしても、ガテン系職人の見習いから出発して、やがて熟練し、さらには独立して親方になるというコースが開かれていた*3。そこから、森真一氏(『日本はなぜ諍いの多い国になったのか』)がいうように、将来自らの労働力を高く売るためにお勉強するしかない「優等生」との時間的パースペクティヴの差異が生じる*4アメリカの影派」というと、何だか昔の加藤典洋の著作とかを連想してしまうのだが、それを言ったら、現代日本文化はみんなそうじゃん。ポスト構造主義スピリチュアリティも。