周氏兄弟(メモ)

北島「話説周氏兄弟」(in『青燈』*1江蘇文藝出版社、pp.49-55)



画家周氏兄弟――山作與大荒、奇相也:他們膚色黧黒、目光如炬、頭頂微禿、髯髪飄逸。再細看法、山作内斂沈静、大荒孤傲狂放。他們身材不高、但矯健、平素身着黒衣、猶如来自深山老林的武林怪杰。(p.49)
周山作と周大荒の兄弟*2は米国在住の華人画家。北島は彼らに1988年にシカゴで出会った(ibid.)。

山作原名少立、大荒原名少寧、壮族人、出生在南寧市武鳴県。外祖母周錦華創辦了武鳴県第一所女子学堂、担任校長、並教美術音楽。由於與丈夫的封建観念発生衝突、她毅然帯女児另立門戸。女児周懿馨後来也成了教師。外祖母是全家的心骨。她従小教他們書法、臨摹《芥子園図譜》。
在這個“母系”家族中有個陰影、那就是周懿馨的丈夫蒙淵。他擅長詩文、貪杯、重友情。大荒剛出生不久、他因酒後妄言“外行不該領導内行”進了学習班、不僅不検討、反而更加慷慨陳詞。学習班結束後、他給大荒買了件小毛衣、忽忽回家、可等待他的是手銬。他被判重刑進了労改場。母親譲児女随外祖母改姓周。她毎月靠四十元的工資、独自撫養両位老人和五個児女。蒙淵従這個家庭永遠消失了。(pp.50-51)
南寧は1989年から1990年にかけて私が住んでいた場所*3
1980年に兄弟はヴェトナムとの国境近くにある「花山壁画」*4と出会う。数日かけてスケッチをし、廣西壮族自治区文化局内の古びた倉庫の「秘密のアトリエ」で壁画の模写を仕上げをしていたところ、「裸体男女」を描いているという密告を受け、批判の対象となり、大荒に至っては解雇を迫られてしまう。しかし、1982年10月に北京の「中央工藝美術学院」院長の張仃の知遇を得て、学院のギャラリーに壁画の模写が展示されることになる。1985年2月には、「中国美術館」で彼らの壁画模写が展示されることになる(p.53)。
「花山壁画」は1989年の国慶節休暇に行っている。しかしその時観たのはほんの一部にすぎず、実際壁画の延長は400里以上にわたり、4つの県に跨っている。
周氏兄弟は1986年に米国へ移住。