矢内原忠雄/沖縄

今泉裕美子「矢内原忠雄の遺した課題――戦後日本にとっての「国際関係研究」と「沖縄問題」」『UP』439、pp.45-49


矢内原忠雄教養学部」(東京大学駒場博物館)に寄せた文章。
日本の「委任統治」下にあった「南洋群島」の日本人人口の6割を「沖縄出身者」が占めていた(p.46)。


「社会群」同士の接触とそこから発展する社会に着目した矢内原の植民論によれば、南洋群島では、「資本主義的近代化」を迫られている現地住民が接触する日本人の中核をなす存在に、沖縄出身者が位置づけられた。現地住民の精神的・物質的福祉の増進を掲げた委任統治の諸義務に照らし、矢内原は、現地住民社会の特徴を無視した日本の同化政策を批判する一方、スペイン、ドイツ時代から続くキリスト教宣教師たちによる「島民社会生活の向上」に肯定的評価を与えた。ゆえに、キリスト教による教化を阻害するものとして、沖縄出身者の「殊に男女関係及び飲酒」を指摘し、「文化程度低き沖縄県人」の「教化」が「絶対的に必要」だと述べている。あるいは、現地住民が沖縄出身者を「内地人のカナカ*1」と呼ぶような状況から、日本人へのそんけいが得られないとした。これら評価について矢内原の調査ノートから推測できるいくつかのうちの一つは、男女関係とは売買春は行われた「料亭」、飲酒とは「泡盛」の流通である。当時、主だった島の市街地には沖縄出身者の経営する料亭が多く店を構え、また泡盛醸造所もあって、泡盛は移民たちに安価な酒として流通していた。サイパン支庁長の談によると、料亭が現地住民を呼び込んだり、日本人が現地住民を連れてきて支払いまでさせることがあり、現地住民には性病の感染、日本人女性に失礼な態度をとるようになった問題が指摘された。またキリスト教宣教師は、南洋庁が売春を公認していること、委任統治条項が禁酒を定めているにも拘らず、日本人が現地住民に泡盛と引き換えに仕事などを請け負わせていること、などを批判していた。さらに矢内原は、沖縄出身者が郷里の墓地建造など「不生産消費」のために多額の送金をしたり、団結心が強くて移住地に同化せず、新社会建設に貢献しないことも問題だとした。(p.47)
こうした矢内原の沖縄人への視線は「日本内外の移住地で、内地出身者から沖縄出身者に向けられた批判に共通するもの」(p.48)。
「矢内原の共学関係の核をなす資料、とくに樺太、台湾、南洋諸島関係の資料、原稿、講義ノートの殆ど」は「琉球大学附属図書館」所蔵のものであるが、それは1957年1月の矢内原の沖縄講演旅行(pp.48-49)に関わっている(p.46)*2。「当時中学生として[矢内原の]講演を聴いた池間真は、「矢内原の息吹を沖縄に残したい」と矢内原の遺族に申し入れ、琉球大学に蔵書・資料の寄贈を実現させた」(p.48)。また、沖縄から帰った後の「東大学生との懇談会」で、矢内原は「「沖縄問題」解決の具体的な方策として、海外移民の必要性を説き、移民作として米軍が旧南洋諸島を開放すべきだとした」(p.49)。

今泉氏による矢内原忠雄関係のテクスト;


矢内原忠雄の国際関係研究と植民政策研究――講義ノートを読む」『国際関係学研究』23、1997
仲宗根政善先生と矢内原忠雄先生の出会い」『沖縄文化研究』22、1996

なお、第一次大戦後の「委任統治」正当化については、檜山和也「グローバリゼーションと主権の概念」(『コロキアム』1、2006)*3に言及あり。

コロキウム―現代社会学理論・新地平 (No.1(2006年6月))

コロキウム―現代社会学理論・新地平 (No.1(2006年6月))

*1:「カナカ」は現地住民のひとつ、「カロリニアン」に対する日本人による呼称(p.46)。

*2:榮野川敦「矢内原忠雄文庫について」(http://manwe.lib.u-ryukyu.ac.jp/yanagihara/about.php )が参照されている。

*3:See http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20090402/1238638234