「文学」ではそうなの?

小谷野敦氏曰く、


 田中貴子さんがよく寄稿している日本文学協会の『日本文学』に投稿して没になった。短すぎるから、というなら仕方ないと思いつつ、没の理由を聞かせてくれと言ったら、もちろん無記名の返事が来て、

 「『源語提要』の著者が五井蘭洲であることは、伊井春樹編『源氏物語注釈書・享受史事典』に暗に示されているから」というのだよ。なんで「暗に」示すのか。明に示せばいいではないか。私はそれで日文協を脱退して、「まじめにやれ」という手紙を書いておいた。田中貴子の「安徳天皇女性説について」なんて、エッセイでしかないものを載せる雑誌だからね、あれは。

 査読者が常にまじめである、という保証はどこにもない。要するにこれの場合は、野口武彦とかへの遠慮としか思えない。太郎丸氏*1は、査読者がまじめであるという保証をどこで得るのだろう。それとも、社会学の世界では査読者はみなまじめなのだろうか。
http://d.hatena.ne.jp/jun-jun1965/20090402

これって「査読」なの? と思った。「没の理由」って、普通「査読」された原稿には査読者のコメントがついているんじゃないの? 私が査読された(また査読した)経験から言えば、「査読」というのはたんに載せるか没かという問題に関わるわけではないだろう。例えばA、B、C、Dというふうにランク付けされて、Aはほぼそのまま掲載可、Dは没ということになるのだが、これは数が少なく、殆どの原稿はBかCということになる。これは書き直した上で掲載可ということなのだが、どの箇所を書き直せという指示がコメントとして付されている筈。また、通常没といっているのは、C評価で、あまりに書き直す箇所が多く、締切までに間に合わないということだろう。
「文学」研究の世界ではこういう「査読」が普通なのか。