春名徹『北京』

北京―都市の記憶 (岩波新書)

北京―都市の記憶 (岩波新書)

もう九谷さんは北京から東京に戻ったのだな。
春名徹『北京――都市の記憶』を読了したのは1月の末。少しメモしておく。


はじめに


第1章 壁に囲まれた都市――歴史をさぐる
第2章 盛り場歩き――都市の欲望
第3章 天安門広場――皇帝の身体・主席の遺体
第4章 故宮の秘密――権力を視覚化する
第5章 胡桃のなかの世界――密室から世界へ
第6章 什刹海とその周辺――古都の余香
第7章 天壇へ――天を祀る場所
第8章 水と庭園――北海公園と頤和園
第9章 西山のふもと――郊外の風景
第10章 万里の長城と明の十三陵――明文化の残光
第11章 博物館さまざま――ものと記憶
第12章 北京に住んだ人々――都市の身体


あとがき
主な参考書
略年表
索引

春名徹氏による北京案内記。先ずは周代にまで遡って、北京という都市を位置づける。また、この本の記述の中心は「故宮」を巡る第4章と第5章であり、また「水と庭園」と題された章もあるが、著者が北京を語る上での(あまり目立たないが)鍵言葉の1つは「水」である。
少し抜き書き;

(前略)北京が、文字で書かれた歴史に登場してくるのは、およそ三〇〇〇年前のことである。紀元前一〇五〇年ごろ、殷を倒して国家を統一した周の武王は、聖君の子孫や功績のあった臣下に土地を与えて全国を統治させた(『史記』周本紀)。この時、古代の理想の君主とされた堯の後裔には薊の地を与えた。薊は現在の北京市域にあったとされる。アザミの花が咲き乱れていたのが地名の由来だという。この国の実態ははっきりしないまま消滅してしまった。しかし薊の名はその後も長く残った。
実質的に北京周辺の支配者となったのは同じ時期に成立し、八〇〇年近く存続した燕国である。燕は武王の弟、召公奭に与えられた。しかし召公は、武王の後を継いだ幼い周王成を補佐する立場にあったため周の都を離れず、子を燕に派遣し、代わって統治させたと考えられている。北京の南西郊外にある董家村という小さな村の瑠璃河遺跡〔房山区董家村瑠璃河〕に最初の燕の都の跡がある。(pp.2-3)

董家村にあった最初の燕の都は一五代続いたとされる。その後、臨易(河北省雄県)に移り間もなく薊県に移った。かつて周から封じられた薊国の故地である。その位置は正確には判らないが、現北京市内の広安門の西、白雲観の近くに薊台とよばれる小丘があり、長くそこが薊の城跡と信じられて来た。都市開発の過程で丘は崩され、広安門の護城河のほとりに「薊城記念碑」だけがある。薊城が繁栄したのは、人口増加に対応できる水源があったことと、このあたりが古代の交通の要衝であったことによる。現在、鉄道の北京西駅の付近に蓮花池公園があるが、この水系が薊城の水源だったと考えられている(王彬、徐秀珊『北京街巷図志』)。最盛期の燕は五つの都を持ったが、薊は上都(首都)であった。(p.7)
また、石橋丑雄という人について;

石橋丑雄は非凡な人物である。島根県益田の人、大正の初めに徴兵されて中国北部に渡り、中国に魅了されて除隊後も北京にとどまった。外務省に入って調査研究に携わり、北京を熱愛して、あらゆる古蹟を研究した。昭和一二年(一九三七)ころ、北京市公署秘書長室と観光課に採用された。日本から北京を訪れた人たちが、いかに彼に懇切な世話を受けたか、石橋がいかに熱心な研究者であったかは、和田清博士が『天壇』*1に寄せた序文に尽きている。一般むけの『北京遊覧案内』などの著作のほか、満州シャーマニズムにかんする「北平の薩満教に就て」という論考もある。『天壇』は清王朝の基礎である女真族満州族)の信仰体系と天壇を関連づけたことによって、天壇にたいする的確な把握が可能になった名著である。
彼はたまたま日本に出張中に敗戦を迎え、北京に残した約二万冊の蔵書と資料をすべて失った。その後、戦時中の自分の行動を省みて故郷で農耕にいそしんでいたが、思い立って、幸い旅の行李に納めてあった天壇関係資料と二十五史だけを頼りに『天壇』を書いたという。(後略)(pp.127-128)
それから、第12章「北京に住んだ人々」では、老舎、魯迅、林則徐とともに、賽金花が言及されている(p.229ff.)。曰く、

賽金花(一八七二〜一九三六)は江蘇省蘇州の生まれ。一五歳で妓女となったが、まもなく洪鈞に見初められ、その側室となった。洪鈞は同治七年(一八六八)の科挙の首席合格者(状元)であったから、男は状元、女は名妓という典型的な通俗小説の主人公のような取り合わせであった。洪はロシア、ドイツ、オーストリア、オランダ四国全権公使に任じられたので、賽金花はともにヨーロッパへ行き、主にベルリンで四年間、滞在した。帰国後まもなく洪鈞が死ぬと、彼女は上海や天津で妓楼を開き、大いに名を挙げた。
ベルリン時代に彼女が乗っていた馬車の馬が暴れだしたことがあり、馬を鎮めてくれた縁で、あるドイツ人士官と知り会った。一九〇〇年の義和団事件のさい、八か国連合軍の司令官となったワルデルゼーこそが、その青年士官であった。一九〇〇年当時、北京にいた彼女は、ドイツ語が話せたので、ワルデルゼーに要請して連合軍の略奪をやめさせるなどして人望を集めた。また義和団に殺されて事件の発端となったドイツ公使ケトレルの夫人をなだめ、李鴻章による講和交渉を側面から助けた。
やがて彼女は過去の人となって行ったが、曾樸が書いたモデル小説『孽海花』(一九二八)が話題となり、一九三三年には北京大学教授・劉半農らが聞き書きをして『賽金花故事』(一九三四)をまとめ、ふたたび世間の注目を集めた。満州事変、上海事変と、日本の侵略がじわじわと進行し始める時代に、賽金花の行為は新しい意味をもって見直され、愛国行動の先駆と位置づけられたのであった。(後略)(pp.230-231)
あと、目を引いたのは、「紀元二〇〇〇年を記念して北京市共産党北京市委の主導で作られた」(p.219)「開放経済のもとにおける唯一の記念建造物」(p.220)である「中華世紀壇」が言及されていること。また、今度北京に行ったら、「都一処」(pp.34-36)で焼売を食べてみたいとは思う。
北京という都市を巡っては、竹内実『北京』もマークしておく。また、『ブルータス』の北京特集*2も。
北京―世界の都市の物語 (文春文庫)

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BRUTUS (ブルータス) 2007年 5/15号 [雑誌]

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