「勉強」ができるとかできないとか

http://d.hatena.ne.jp/pollyanna/20081224/p1


去年の末は、このエントリーから派生した話題で沸き上がっていたようだ。既に話題としてはクール・ダウンしているかも知れないが。
「勉強」というのはけっこう多義的な言葉で、誰もが(全く無関係というわけではないが)かなり違った意味を「勉強」という言葉に籠めて、この言葉を使っている。だから、「勉強」という言葉のセマンティックスの交通整理が必要なのだろう。
例えば、「勉強」という言葉を〈学校制度の範囲内における勉強〉というふうに限定しても、「勉強ができる」人に対する社会的リアクションは、ジェンダーによって違ってくるだろうし、科目(文系か理系か)によっても違ってくるだろう。
たしかに、「勉強ができる」人がネガティヴに描かれるというのは、例えばTVドラマ(学園ドラマ)ではかなり普遍的な現象といえるのではないかと思う。たしかに、そのようなジャンルのドラマでは、「勉強ができる」子は傲慢で、自分勝手で、心が冷たい嫌な奴として描かれることが多く、他方〈勉強ができない〉奴は表面的には粗暴だったり無気力だったりするが、実は思いやりがある、いい奴ということになる。例えば、〈勉強ができない〉高校生を「勉強ができる」(東大に合格できる)高校生に変えていく物語である『ドラゴン桜』でもそれは変わらない。というか、エリート校に通う弟と「私立龍山高等学校」に通う双子の兄というかたちで、この構図はわかりやすく可視化されている。それは、賄賂を贈らない〈越後屋〉が出てきては時代劇が存立せず、謙虚で心優しい資本家が登場してはプロレタリア文学が存立しないかのようである。また、エントリーに対するリアクションという仕方で自らそのような偏見の実在を証明してしまっているということもある*1

ドラゴン桜 DVD-BOX

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「勉強ができる」子が生徒のサブカルチャーにおいて周縁化されるということについては、英国における労働者階級のガキたちの学校文化への反抗と階級の再生産を描いたポール・ウィリス『ハマータウンの野郎ども』*2が一つの答えを出しているといえるだろう。労働者階級のガキたちとって、お勉強を重要な要素とする学校文化は、お勉強ができる子が将来なるであろうホワイト・カラーや役人の世界に連なっており、端的に〈奴ら〉の文化なのだということになる。こうしたかたちでの「勉強ができる」子の周縁化は、例えば自営業が多い地域でも考えられるだろう*3。ただ、将来が学校の成績や学歴により左右されるホワイト・カラー労働者(サラリーマン)が集まっている地域では、やはり違うのだろう。
ハマータウンの野郎ども (ちくま学芸文庫)

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また、「理系専業主婦」さんは、

日本の企業は、博士以上の高学歴者を敬遠するという。そこには、勉強のできる子供に対する偏見と同質の偏見がひそんでいるような気がする。
と書いていて、これに対しては、そんなことはないというような意見もある*4。これも文系と理系とは違うのではないかと思う。文系の場合はたしかにそうだと思う。また、「日本の企業」の高学歴者忌避は「ハマータウン」の心性では説明できない。学問の世界の外部において学問の価値の基準は何処にあるのかといえば、(例えば金儲けとか革命に)〈役に立つ〉かどうかということだろう。これが見えにくい場合は忌避されやすいといえる。さらに、当面は役に立つわけではない知識、つまり教養に対する態度ということがある。教養の問題はここでは深入りしない。しかし、〈役に立つ〉かどうかというのは、世間においては「勉強」の対象だけでなく「勉強」の動機についても重要であるらしい。「勉強」が正当化されるためにはそれが〈役に立つ〉ことが必要であり、する方も〈役に立つ〉ことを持ち出してエクスキューズを求める。そうでなければ、「勉強」オタクということになる。
さて、私は中学時代とかは、〈学校制度の範囲内における勉強〉という意味では「勉強ができ」た。そのことによっていじめられたという記憶はない。寧ろ、それで一目置かれることによって、いじめに対する歯止めになっていたかなと思う。勿論、こういうことというのは時代とか地域とかによる影響が強いので、それを普遍化するつもりはない。
ところで、小笠原祐子『OLたちの〈レジスタンス〉』もマークしておく。多分この本はこの問題に無関係じゃない。
OLたちの「レジスタンス」―サラリーマンとOLのパワーゲーム (中公新書)

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