決定(決断)不能性と決断(決定)

http://d.hatena.ne.jp/toremoko/20081219/1229682735(Via http://d.hatena.ne.jp/noharra/20081219#p2


この余白にデリダ『法の力』からの引用を書きつける。


ある決断が正義にかなうものでありかつ責任ある/応答可能なものであるためには、その決断はそれに固有な瞬間において――このような瞬間があるとして――、規制されながらも同時に規則なしにあるのでなければならないし、掟を維持するけれども同時にそれを破壊したり宙吊りにするのでなければならない。すなわち、それぞれのケースにおいて掟を再発明しなければならないほどに、それを正義にかなうようにし直さねばならないほどに、掟を破壊したり宙吊りにする必要がある。あるいは少なくとも、自由にそれにまったく新しい確証を与える、というかたちで掟を再発明せねばならなくなるほどに、掟を破壊したり宙吊りにする必要がある。(略)決断はそれぞれが異なっており、それぞれが絶対に唯一無比の解釈を要求する。すなわちそれは、現実に存在するコード化されたどんな規則をもってしても絶対的な保証を与えることができないし、与えるべきでもないような解釈である。もし、少なくとも規則が解釈を揺らぐことのないような仕方で保証するならば、そのときには裁判官は計算する機械である。(略)判断/判決は、反復可能性(iterabilite)を必ずもっており、それに応えるための仕組みや技術が生まれる。それらによって何らかの寄生状態がどこまでも残ることになり、この寄生状態に従って、裁判官の計算機化は常に起こっているのである。しかしそうである限り、人がこの裁判官について次のように言うことはないだろう。すなわち、彼は純粋に正義にかなっており、自由であり、また責任を負っている/応答可能である、と。(pp.56-57)

決断不可能なものとは、二つの決断の間で揺れ動くことまたは緊張関係が起こることであるばかりではない。決断不可能であるのは、次のものの経験である。すなわち、計算可能なものや規則の次元にはなじまず、それとは異質でありながらも、法/権利や規則を考慮に入れながら不可能な決断へとおのれを没頭させねばならない(doit)もの――ここで語る必要があるのは、義務(devoir)についてである――、の経験である。決断不可能なものの試練を経ることのない決断は、自由な決断ではないであろう。それは、ある計算可能な過程を、プログラムとして組むことができるようなかたちで適用すること、あるいは断絶させることなく繰り広げること、にすぎないだろう。そのような決断は、たぶん合法的ではあるだろうが、正義にかなってはいないであろう。しかし、決断不可能なものによって宙吊りにされる瞬間はどうかというと、そのときにも決断は正義にかなっていない。なぜなら決断のみが正義にかなっているからである。(後略)(pp.59-60)

この試練は、決断するなかで乗り越えられるかまたは止揚される(aufgehoben)一つの契機ではない。あらゆる決断は、すなわちあらゆる決断という出来事は、自らのうちに、決断不可能なものを少なくとも幽霊(fantome)として、しかしながら自らの本質をなす幽霊として受け入れ、住まわせつづける。決断不可能なものの幽霊的性質は、現にそこにあることを保障するものをことごとく、内部に巣くって脱構築する。現にそこにあることを保障するものとはつまり、確実性またはいわゆる基準論であり、それらによってわれわれは決断の正義を保障されるのだが、実を言えば決断の正義とはつまり、決断という出来事そのものである。(pp.61-62)
法の力 (叢書・ウニベルシタス)

法の力 (叢書・ウニベルシタス)

ところで、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060206/1139243584http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071024/1193204480http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071121/1195614055http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080502/1209661435http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080904/1220503480においても、『法の力』に言及している。