情と理(余白への書き込み)


資本主義やら科学やらが、「理」を以って「情」を超えようとするものであるのに対し、

恋愛やら文学やらは、「情」を以って「理」を超えようとするものだ、と最近よく思う。
http://d.hatena.ne.jp/onoya/20081021/1224603234

たしかに「恋愛」には「「理」を超えようとするもの」かも知れない。しかし、「情」なのか。「情」という場合、emotionなのかそれともsentimentなのか。この2つの違いは大きい。また、「恋愛」には(というか、どんなものでもそうかも知れないが)現在進行形的なものと過去完了的なものがある。言葉にもたらされる「恋愛」の多くは過去完了的なものだろう。
また、「文学」は「「情」を以って「理」を超えようとするもの」か。アリストテレスの『詩学』にまで遡れば、たしかにそういえるのかも知れない(所謂カタルシス作用ね)。「文学」は(「情」だとか「理」だとかいう以前に)先ず(事実であれ虚構であれ)叙述をするものなのではないか。そして、(「科学」とは違うけれど、にもかかわらず同様に人間という種に普遍的な理性によって理解可能な)「理」を指し示そうとするのでは?
アリストテレース詩学/ホラーティウス詩論 (岩波文庫)

アリストテレース詩学/ホラーティウス詩論 (岩波文庫)

「恋愛」を巡っては、例えばhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20060315/1142441815http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20061109/1163080989http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080714/1216008269http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080821/1219335534http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080923/1222166948http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080926/1222406355とかもご参照のこと。