「生殖」とネーション

東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

東京から考える 格差・郊外・ナショナリズム (NHKブックス)

東浩紀北田暁大『東京から考える』という本については、http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081031/1225480601http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20081106/1225988138でも言及した。
さて、その中で、東は「ロックの社会契約論は、ヒュームによって「慣習(コンベンション)」の点から批判されている」という(p.241)。それを踏まえて、


(前略)コンベンションの根拠は何かといったら、最終的に世代、つまり生殖の問題だと思うんです。もし人間が遺伝子のスープから単発に個として生まれ、そして個として死んでいくんだったら、コンベンションについて考える必要はない。個と社会だけを考えればいい。けれどもそこに、世代、親子という問題が入るので、コンベンションについて考えることが重要になる。主体の自発的な社会契約とは別の層でネイションについて考えるとき、ここらへんが大事なのではないかという直観があります。(p.242)
それを北田は、

固体と社会という枠組みで考えているかぎりは、ネイション、というか世代を超えて同一性を保持する何ものかはどこまでも相対化することができる。しかし、世代間で継承されるコンベンション、あるいはコンベンションにもとづく自生的な秩序のことを考えると、「個と社会」という共時的に見える枠組みを解除して、通事的なネイションについて考えざるをえない、と。(後略)(ibid.)
と言い換える。それに応えて、東は
そうですね。社会契約としての国家は、いくらでも相対化可能だし脱構築可能なんですよ。だから、「これからのコミュニティはみんなサブカル化する」なんてことも平気で言える。けれども、世代的な連続性で支えられるネイションのほうは、そう単純には解体できない。いくら国家が幻想だといっても、自分がある両親から生まれ、その両親がまた別の両親から生まれ、という継続性は否定できないからです。そして、これは、趣味の共同体とは別の水準で存在する。(pp.242-243)
東はここでは「生殖」に拘る。曰く、

(前略)ここで問題にすべきなのは、むしろ家族というより生殖だと思うんですよ。あるいは再生産。人間が人間を作る、その最小単位としての男女という問題ですね。たとえば、結婚は一種の契約なので解消できる。家族だってそうです。しかし親子は契約ではない。ひとは自分の意思とは無関係に子どもを持つことがあるし、また逆に、あるときとつぜん子どもが現れて無限の責任を要求することもある。そういうハードな連続性が、家族についてのリベラルな議論をすると消えてしまう感じがする。(p.246)

(前略)生殖は、その脱構築に抗うもなにも、そもそも脱構築できない存在なんですよ。言いかえれば、それはリベラリズムポストモダニズムの外部にある。そして、その外部の処理こそが、いま問われているんです。(後略)(p.249)
先ず、ネーションの問題を「生殖」の問題と結びつけたことは鋭いと思う。ネーションは例えばフランス語のnaitreと語源を共有するわけだし、多くの場合、先祖代々といった長い時間に亙る世代的な継続性、或いは日本人の子どもは日本人といった生殖を媒介とした直接的な継続性*1も強調される。しかし、「生殖」とネーションは直接的に結びつくわけではないだろう。人間は大昔から「生殖」を行ってきたが、ネーションという仕方で自らの社会的世界を想像するようになったのはそれほど古いことではない。さらに、東がネーションを「そう単純には解体できない」根拠だとする、「自分がある両親から生まれ、その両親がまた別の両親から生まれ、という継続性」それ自体がネーションの自明を揺るがすこともありうるのである。ありうるというよりも、私の交友範囲で最近生起した「生殖」について言えば、その方がマジョリティでさえある。東の議論は日本人は日本人の異性とくっつき、仏蘭西人は仏蘭西人の異性とくっついて、「生殖」を行うということを自明視することにおいて成立している。しかし、日本人と韓国人、中国人と仏蘭西人から生まれた子どもは自らの起源たる複数のネーションの間で折り合いをつけていかなければならない。そして、彼(彼女)にとってネーションとは(その良し悪しは別として)全く自明ではない事柄となるだろう。
また、両氏の「脱構築」という言葉の使い方にもかなりの違和感を覚えたということも記しておかなければならない。「脱構築」というのは(上から目線で)「相対化」したり「解体」したりすることよりも、「脱」という漢字やde-という接頭辞が示しているように、寧ろ構築は常に(構築の意志にも拘わらず)過不足を生みだしてしまうということであろうし、思想的な態度としての「脱構築」はそうした過不足(構築の意志からの逸脱或いは逃走)をスキャンダルとして抑圧するのではなく、肯定し、見守るということであろう。詳しく論じる余裕はないが、取り敢えずhttp://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20071016/1192508056で引用した梅木達郎の「テクストを支配することなく、無条件で受け入れ、かぎりない注意をもって歓待すること」という言葉(「テクストを支配しないために」、p.145)を再度掲げておく。また、ブレヒトの「人間の努力は長続きしない」*2もマークしておく。
支配なき公共性―デリダ・灰・複数性

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いちめん菜の花

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