記号学の話とか

「「神田高校」ってどんな高校だったのか」*1に関しては、コメント欄にて御教示いただいた。お礼を申し上げたい。また、http://d.hatena.ne.jp/y_arim/20081030も参照。そこには、http://kanal.flight-seminar.com/620/734.htmlとかhttp://hennsati.seesaa.net/article/47204416.htmlへのリンクあり。それはともかくとして、有村悠氏がいう「事前に公表した選考基準以外のいかなる基準でも選考してはならない」というのはその通りだろう。
ところで、中学とか高校の教師というのは(教員採用試験の科目に記号学があるんじゃないかと思わせる程)日々記号学の研究に勤しんでいたものだ。生徒のファッションというシニフィアンから生徒の非行化というシニフィエを読解する記号学。この事件を聞いて思ったのは、まだ記号学やってるんだということ。というのも、既に「スカートが短い」だとか「ピアス」*2とかいったアイテムは〈非行〉を意味する特権的な記号ではなくて、たんなるファッション上の選択肢にすぎないのではないかと思っていたからだ。
さて、この事件を巡っては、「教育の非メリトクラシー化」と題するhttp://d.hatena.ne.jp/dot_hack/20081029/1225240874も興味深かった。曰く、


「お受験」の際に、親の服装まで面接で見られるなどという話も聞くのだが、もしかすると日本の教育は、「中流」に向けた強い階層上昇動機を支えた「メリトクラシー」的なものから逸脱しつつあるのかもしれない。それも、特に上層と下層で。メリトクラシーの利点は、社会階層間の格差が大きく、かつ社会全体が成長段階にあるという条件の下で、「頑張ればなんとかなる」という期待を形成できる点にあるわけだが、それが健全に機能するためには、「頑張った」ことを評価する基準が公平かつオープンでなければならない。しかし、社会全体の階層上昇や、高度成長の終焉などによって「親よりも高い階層に上昇する」ことが相対的に困難になると、「上」や「下」の部分での選抜基準=「ものすごい上」と「上中下のどこにも入れないくらい下」を決定する論理が、非メリトクラシー化してしまう。「頑張ったくらいではなんともならない才能」や「頑張りとは別の部分での生活態度」が、合否を決定する要因として、強く意識されるようになるのだ。

「包摂型社会から排除型社会へ」とか言えば最近の議論っぽいが、この話、おそらく気をつけなければいけないのは、教育のメリトクラシー的前提に対する信頼が、とうの昔に崩壊していることが露わになったという点だろう。私たちが求めているのは「頑張ればなんとかなる」という「努力の成果」ではなく、「あいつと俺の間に生まれた差を、努力以外の部分で納得できる要素」なのではないか。どんなに頑張っても、「DQNなら仕方ないでしょ」と多くの人が納得するとき、そこにはその「仕方のなさ」に対する思考停止が生じているのである。

序でに言っておくと、最近見られる(新自由主義者とかによる)「メリトクラシー」の過度な強調も「教育のメリトクラシー的前提に対する信頼」の「崩壊」(そこまでいかなくとも危機)の裏面であろう。宗教的なファンダメンタリズムがそうであるように、大方のイデオロギーのラディカル化というのは危機の言説なのだ。また、三浦朱門勉強ができない奴は実直であればそれでいいとか言ったとかいうのは(斎藤貴男『機会不平等』とかを参照)、一方における本音がぽろりの類だろう。さらに、佐藤俊樹氏(『不平等社会日本』)が指摘しているような「メリトクラシー」に乗った高学歴者による(罪滅ぼしとしての)学歴社会批判も一方における「メリトクラシー原理主義と同根だと言えるのでは?
機会不平等 (文春文庫)

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不平等社会日本―さよなら総中流 (中公新書)

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