死を想わず

『読売』の記事なり;


自宅から葬儀丸見え、フェンスかさ上げ命令…人格権侵害と


 京都府宇治市の葬儀場に隣接する民家の住民男性2人が、葬儀の様子が自宅から丸見えで、平穏に暮らす権利が侵害されているとして、葬儀場を運営する同市の葬祭会社に、目隠し用のフェンスを高くするよう求めるなどした訴訟の判決が16日、京都地裁であった。

 井戸謙一裁判官は「精神の平安に悪影響で受忍の限度を超えており、人格権を侵害している」として、同社に20万円の損害賠償と、フェンスの高さを現在の約1・8メートルからさらに1・2メートル高くして、様子が見えなくするよう命じた。

 判決によると、葬儀場は2005年10月から利用が始まった。同社は周辺住民の要望でフェンスを設けたが、原告宅の2階は視界を遮られず、参列者の出入りや出棺の様子などが見渡せるようになっている。

 井戸裁判官は判決で「安息を求める自宅で日常的に他人の葬儀に接すれば、心の静穏が乱される」と述べた。

 原告側の代理人弁護士は「葬儀場周辺の住民に、平穏に暮らす権利を認めた画期的判決」と評価。同社の代理人弁護士は「全面的に承服できないので控訴を考えている」としている。

(2008年9月17日00時45分 読売新聞)
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20080917-OYT1T00051.htm

住宅地に葬儀場は増えているし、こういうトラブルは起こるのだろう。そもそも新しい住宅地は〈死〉を排除して存在しているとも言える。〈死〉は病院や老人ホームに追放されたともいえ、人は死ねば自宅には帰らず、そのまま葬儀場に直行し、自宅に帰るのは焼かれて灰になってからということになる。住宅地において排除した筈の〈死〉が葬儀場の存在によって回帰してしまったといことになる。
さて、「安息を求める自宅で日常的に他人の葬儀に接すれば、心の静穏が乱される」とあるが、逆に「自宅で日常的に他人の葬儀に接すれば」Memento moriの瞑想的生活が促進され、「心の静穏が」得られるという人もいるのだろう。つまりは、人それぞれということになる。だから、「井戸謙一裁判官」が一般的な事柄として上記のことを述べたとすれば、やはり問題だろう。
俗な話で恐縮だが、葬儀場も近隣住民の葬式は大幅割引(場合によってはロハ)ということにすれば、訴訟を起こされることもなかったか。