「超越」(メモ)

使える現象学 (ちくま学芸文庫)

使える現象学 (ちくま学芸文庫)

レスター・エンブレー『使える現象学*1から抜き書き;


見ること、触れることなどは感覚的知覚の部分、あるいはもっと適切に言えば、構成要素となっているが、しかし、可感的な諸性質を持つ指向されるものごとは、それと同じような仕方で指向的な流れの部分になっているわけではない。指向されるものごとは、ある仕方で指向的な流れの外部に、あるいはそれを超えたところにある。その仕方は、指向されるものごとが「外的に超越している」と言うことによって指し示すことができる。あるいはまた、場合によってはそれらを「外的超越」や「外的に超越しているものごと」と呼ぶことによって指し示すことができる。「超越的(transcendent)」という言葉はしばしば、哲学者たちにとって「体験を超えている」ということを意味する(略)だが、だからこそ注意しておかなければならないのは、現象学においては、外的に超越するもの、たとえば椅子は観察できると見なされ、したがって、経験することの範囲を超えてはいないということである。
たとえば椅子のように、感覚的に知覚することのできる外的な超越のみが、指向される超越なのではない。さまざまな種類の理念的な対象も、やはり外的な仕方で超越的である。さらに、エゴ、より適切には、「諸々の自我」は、「内的」と呼びうる仕方で超越的である。それは内的な超越である。内的、外的な超越は、両方とも反省的に観察することができる。すべての種類の超越は、「内在的」であるような別の種類のものとは対照的である。内在的であるということは、指向的な流れの部分であるということである。たとえば、聞かれる音ではなく聞くこと、またはその聞くことに関して自己観察を行うような反省は指向的な流れの部分であるが、それらはいずれも内在的である。(pp.134-135)

*1:凄いタイトル!