「階級闘争史観」か


本業の室町政治史研究と並行して、というよりここ数年本業と化していたアイヌ史研究は、まさに「階級闘争史観」では描ききれなかった歴史像である。アイヌ史以外にも70年代に提示された「人民闘争史観」という分析概念によって「階級闘争史観」では光を当ててこられなかった様々な分野の研究が進展した。琉球史研究の進展も同じ側面で考えられなければならない。女性史研究の進展もそうだ。マイノリティ史研究の進展が70年代から80年代の歴史研究を特徴づける研究動向だと思うが、それは「階級闘争史観」で何でも説明できる、とは少なくとも歴史学の主流では考えられていない、と私は考えていた。
http://d.hatena.ne.jp/Wallerstein/20080809/1218281961
ここで述べられているのは「歴史学」研究の流れについてである。これを読んで、日本の左翼運動というか社会運動のことを思い出した。1970年代以降、というか(私が少しは参与観察的な経験がある)1980年代前半において、日本の左翼運動の主な課題は、三里塚闘争、部落解放運動(主に狭山闘争)、日韓連帯運動(例えば金大中救援運動)であった。また、エコロジー運動やフェミニズム運動も表面化しつつあった。つまり、1970年代以降というのは左翼運動が(少なくとも狭義の)「階級闘争」から外れ始めた時代でもあったわけだ。新左翼も含むオーソドックスな左翼としては、少なくとも2つの選択肢があったように思う。1つは「階級闘争」の枠組みで(無理矢理)解釈すること。もう1つは無視、甚だしい場合には敵対すること。多くの左翼は前者を選んだが、日本共産党、カクマル、社会主義協会などは後者を選んだことになる。前者の場合でも、「階級闘争」で割り切れない場合は、往々にして〈道徳主義〉による糊塗が行われた。
さて、「北条時輔」さんの他のエントリーを読んでいて、歴史学における「階級闘争史観」の蔓延ぶりは凄いなと思った。たしかに社会学理論においてマルクス主義は避けて通れない。しかし、私及び身近にとっては、それは主に〈物象化〉論であって、階級闘争階級闘争! と叫んでいる人はあまりいなかった。ただ、農村社会学は(『社会学講座』を読めばわかると思うが)かなりアレだったとは思う。恩師のH先生(文化人類学専攻)がある時、農村社会学の奴らは農民層分解にしか興味がないんだからと言っていた。
社会学講座 4 農村社会学

社会学講座 4 農村社会学

階級闘争史観」はどうでもいいことだと思う。というか、単線的な発展史観、さらには歴史哲学、〈大きな物語〉を語ってしまうこと自体が大いなる懐疑に晒されているわけだ。しかし、現存する階級闘争を否認・隠蔽し、その現実的な意義を否定してしまう傾向は徹底的に批判しなければいけないと思う*1階級闘争と革命とは多分関係ない。階級闘争の目的はあくまでもその階級のバーゲニング・パワーの拡張である。それは『何をなすべきか』のレーニンの認識でもあった筈。レーニンの場合は、そこから、だからこそ革命的インテリゲンチャが外部から革命的イデオロギーを注入しなければいけないという議論が引き出される。勿論、〈外部注入論〉は認めないけど。
なにをなすべきか?―新訳 (国民文庫 (110))

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