「考えが浮かぶ」(ドゥルーズ)

批評空間 (第2期第22号)

批評空間 (第2期第22号)

http://d.hatena.ne.jp/sumita-m/20080706/1215286712でも引用したドゥルーズの「創造行為とは何か」から;


(前略)いい考えが浮かぶということが稀にしか生じない事件であり、しばしばは起こらない、一種の祝祭のようなものであることは誰もが知っています。しかし同時に、この、考えが浮かぶということが、何かしら一般的な現象を意味するわけではないという事実も指摘しておかなければなりません。人は一般的に何らかの考えを浮かべるということをしない。ある一つの考えを抱く人間についてと同様、はじめからこれこれの領域に否応なく結び付けられているものなのです。それは絵画における一つの考えであったり、小説における一つの考えであったり、哲学における一つの考えであったり、科学における一つの考えであったりします。そして、それら全てを同一の人間が持ちえないのは当然のことなのです。考えというものは全て、これこれの表現様式の中に既に組み込まれ、その表現様式と不可分の関係にある潜在的な力のようなものとして取り扱わねばなりません。一般的な形で、ある考えが浮かぶなどということは起こりえないのです。例えば私は、私の有している技術的知識に応じて、具体的なこれこれの領域においてのみある考えを浮かべることができる。映画においてある考えを、また哲学においてある考えを、といった具合に。(pp.91-92)

結局のところ私には、ある考えが浮かぶということがコミュニケーションの領域には属さないのではないかと思えるのです。
(略)人が語ることは全て、どんなコミュニケーション行為にも還元されることがない。(略)ではそのことの意味するものは何か。一義的には、コミュニケーションが一つの情報の伝達であり伝播であるという事実です。では情報とは何か。(略)誰でも知っているように情報とは指令の総体のことを言うのです。誰かが他の誰かに情報を与えようとするとき、彼は相手に対して、相手が信じる義務があると思われる内容を伝えるのです。別の言い方をすれば、情報を与えるとは一つの指令を人から人へと手渡ししていくことなのです。警察の行う声明は正当にも「コミュニケ」〔「伝達されるもの」の意〕と呼ばれます。人が他者に伝達するものは情報であり、そこで伝えられるのは、相手が信じることができると見なされるもの、信じなくてはいけない、信じる義務があると考えられることがらなのです。信じる義務とすら言えないかもしれません。むしろ信じているかのように振舞う義務とでも言った方がいいでしょう。相手は実際に信じることを要求されるわけではない。そうではなく、あたかも信じているかのように振舞うことを要求されるのです。情報とは、コミュニケーションとはそういうものなのです。そしてこうした指令の言葉やその伝達を離れては、情報もなければコミュニケーションもありません。それは結局、情報というものがまさしくコントロールの体系に他ならないということを意味しています。(後略)(p.99)
この後で、「規律・訓練型」社会から「コントロール型」社会へという(フーコーを踏まえた)話をすることになる(pp.99-100)。
さて、ここでいわれる「指令」とは原文では何なのだろうか。Ordre? そういえば、別の準位、別の意味において、ordreに拘っていたのは、『文学の記号学』におけるロラン・バルトだった。