選択肢の差

Skeltia_vergberさんが『バベル』*1を巡って、


「聴者なのに、ろう者を演じる」ことはNGだとすれば、ひっくり返して「ろう者なのに、聴者を演じる」ことはどうなんだろう?NGなのだろうか?OKなのだろうか?

歌舞伎の女形や、宝塚の男役のようにOKとなるのは文化的に一定程度認められているからなのかな?
http://d.hatena.ne.jp/polchess/20080722/1216750199

という。
「ケイパビリティ」*2ということと関係があるのでは? ケイパビリティは形式的には可能な選択肢の多少によって示すことができるだろう。勿論、その選択肢の差は社会制度やテクノロジーによって縮めることができるだろうし、社会福祉や医療はそのためにあるといってもいい。例えば、足が動かなくても、駕籠や車椅子を使うことによって、移動という選択肢を獲得することができる。しかし、そのような手段を使っても縮めることのできない差もあるだろう。定義上、聴者には聴く/聴かないという選択肢があるが、聾唖者には聴かないという選択肢しかない。これによって、聾唖者は聴者を演じることが(規範的というよりも)実際に不可能だということになるのだろう。(翼がなくて)飛ぶという選択肢がない人間が鳥を演じることが不可能であるように。
構造分析では、析出する対立項を+/−で示すことがある。例えば、男/女を


ペニス+/ペニス−
ヴァギナ−/ヴァギナ+


として示すことはできよう。「歌舞伎の女形」や「宝塚の男役」は勿論文化的に制度化されているといえるが、それが可能なのは、上で示したような性器に関する+/−とは違った側面において(違った記号を使って)男/女を演じているからであろう。