『殯の森』

殯の森 [DVD]

殯の森 [DVD]

河瀬直美監督の『殯の森*1を最近観た。
「うさこ」さんがかなり厳しい評価を下していたが*2、彼女が批判していたところはあまり気にはならなかった。やはり、私は鈍感なのか。
さて、この映画は空間的に、


街場
農村部


に分かたれている。街場は真千子(尾野真千子)が住む場所、農村部はうだしげきら老人たちがグループ・ホームで暮らす場所、山はうだしげきの妻を初めとした死者たちが住まう場所ということになる。この映画は、真千子の立場から言えば、子どもの死、夫との別れによって、この世に対して居辛さを感じていた真千子がうだしげきに付き従って死者の領域を訪れるという仮死体験をすることによって蘇生する物語だといえるかも知れない。
物語が大きく転換するきっかけは、うだしげきが大切にしているリュックを、真千子が何気なく取り上げようとして、突き飛ばされることである。この拒絶的な身体的接触は、山の中で雨に濡れて冷えたうだしげきの身体を、真千子が服を脱いで、自らの体温で温めてやるシーンに対応している。身体的接触への志向はそれだけではない。うだしげきは山中の妻の墓に辿り着いて、泥まみれになって地面を抱きしめようとする。多分、この地域では両墓制が行われていて、この山中の墓は埋め墓なのだろう。つまり、儀礼的な〈お墓参り〉とは違う。グループ・ホームに坊さんが来て、33回忌を過ぎたら、死者は成仏してこの世からいなくなると言った。泥まみれになって地面を抱きしめるのは、これに対する抵抗なのである。
死者の領域への道行きは、実質的には自動車が道を踏み外して溝に填ってしまうところから開始されるといっていいだろう。うだしげきが畑から西瓜を盗んできて、真千子に無理矢理食べさせるシーン。これは世俗的な規範を一緒に侵犯することで、現世からの離脱を促すと解釈してしまおう。さらに、携帯電話の電波が届かなくなる。そして、山中に入ってからの雨、川の出現(三途の川のミニチュアか)。ここでは、飼い慣らされた自然(農地)/野生の自然という対立が喚起される。勿論、これらは絶対的に対立しているわけではない。茶畑の明るい緑と山中の薄暗い緑の差異のように、連続している。生と死が実は連続しているように。
この映画は、村の男たちが死者に具える飾り物を作る場面から始まる。続いて、畑の間の道を行く葬列。これは始まりに当たってこの映画が〈死〉に纏わるものであることを示すためであるのだろう。飾り物は串に唐辛子を刺す。唐辛子がどんな呪術的意味を持つのか、考えてしまった。
なお、河瀬直美さんの言葉をここに引いておく;


この映画は認知症の人の映画という風にはなっていません。人との関連性の映画で、立場の変化、もしくは人間性の変化というようなものを描いたつもりです。最後に、生きている人たちだけの関連性だけじゃなく、亡くなった人たちと今いる人たちとの関連性にも触れています。それがテーマですね。
http://cinematoday.jp/page/N0014426
また、久しぶりに岩田重則『「お墓」の誕生』を開いてみた。
「お墓」の誕生―死者祭祀の民俗誌 (岩波新書)

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