自由は何処に?

http://d.hatena.ne.jp/lever_building/20080706#p1 *1


他人が「めいわく」と感じようが 感じまいが、他人に危害をくわえることになろうが なるまいが、わたしの行動は、わたしにとって可能な範囲で、制約されることなく自由です。たとえば、わたしには ジャスコで まんびきする自由があります。吉野屋で くいにげする自由も あります。さらに、ひとをころす自由が あります。

 こんなことを おおっぴらに いうヤツは、こわいでしょうか。やばいでしょうか。あぶない にんげんでしょうか。でも、「ひとをころす自由が ある」とは、もっと くわしく いえば、「ひとをころすか ころさないかは、わたしの自由である」ということです。つまり、「わたしには、ひとをころす自由と どうじに、ひとをころさない自由が ある」ということ。

 いっぽう、ほんとうに こわいのは、反対に「ひとをころす自由」を否認するような かんがえかたです。かれらは いうでしょう。「われわれは ひとをころす自由を みとめられていない」と。しかし、あなたの「ひとをころす自由」を みとめないのは、《だれ》(あるいは《なに》)ですか。「法律」でしょうか。それとも、「ケーサツ」でしょうか。

 かりに、「ひとをころすのは、法律で ゆるされていないから、自由ではない」と かんがえる ひとが いたと しましょう。そのひとは、法律が「ひとを ころせ」と 命じたら、ひとを ころすのでしょうか。

これはきわめて道徳的な考え方であり、西洋哲学的には寧ろオーソドックスともいえると思う。また、その含意は我們已経選擇了!ということ*2、さらに善悪の判断というのは私たちの中和化(neutralizing)能力を前提としているということだ。さらに、規則にはその適用は書き込まれていないというヴィトゲンシュタイン的なテーゼに言及してもいいかも知れない。しかし、私がこれに同意できるのは、「思考(thinking)」と「意志(will)」を分離する限りでだ。
「自由」ということを考えるためには、アレントの”What is Freedom?”(in Between Past and Future)を通過しなければならないが、今はこの博覧強記なハンナおばさんのテクストをじっくりと検討する暇はない*3。ただ、「自由意志」、意志としての自由ではなく、「パフォーマンス」としての自由、「行為に内在した」自由を主張するアレントによれば、「意志」というのは命令する能力であるということは記しておきたい。自分若しくは他者に対する命令。因みに、自分というのは一にして不可分のものではない。
Between Past and Future (Penguin Classics)

Between Past and Future (Penguin Classics)

過去と未来の間――政治思想への8試論

過去と未来の間――政治思想への8試論

「意志」=命令としての自由でもなく、またアレントとも少し違った方向から「自由」を考えるなら、どうしたらいいのか。昨日「キネステーゼ」についてメモしたが*4、これはけっこういい手がかりになるかも知れない。私たちが「自由」を感じるのは何よりも自分の身体が動くということにおいてではないか。
〜の不自由な人という障碍者に対する政治的に正しい呼称がある。こうした呼び方の妥当性とかについては脇に置いておいて、その反対を考えてみる。目が「自由」、耳が「自由」、足が「自由」とはどういうことか。取り敢えず、それは見ることができる、聴くことができる、歩いたり・走ったりすることができるということだろう。これらの器官によって(with)見る、聴く、歩く、走るという出来事を(出来るだけスムーズに)発生させていることが「自由」であるということになる。そうすると、「自由」というのは〈熟達〉ということに近づいてくる。そもそも私たちがスムーズに見ること、聴くこと、歩くこと、走ることができるというのは生まれつきのことではない。例えば、ピアノを前にして、ピアノによって様々なフレーズを鳴らすことができれば、私はピアノに関して「自由」であるといえる。これは、アマルティア・センいうところのケイパビリティとしての自由*5ということに通じるかも知れないと思うが、如何だろうか。